先月、高校時代の友人と会ってきました。
場所は兵庫県の尼崎にあるお好み焼き屋。
ここにした理由はこの友人とは行きつけのお好み焼き屋によく行っていたから。ただその行きつけの店は潰れてしまいました。
幸いにもネットでのれん分けの店があることを知り「久々にあのお好み焼きを食べたい」ということで2人で行くことにしたのです。
懐かしい味と大人になって飲むビール。近況報告では友人は今年に次男が産まれるとのこと。
昔と変らない空気と月日の流れがおり混ざる楽しいひとときでした。
無慈悲な扱いの心地よさ
この高校時代の友人は私を無造作に扱います。
例えば待ち合わせに遅刻しそうになり「ごめん、遅れそう」とLINEすると「死ね」と返事が返ってきます。
私も同様で、この友人に対しては普段言わない言動をします。高校時代のノリのままです。
「こいついなくなると困るかもなぁ」と思ったことがあります。というのも久々に会うと「そうだ、俺の素はこんなんだった」と思い返すのです。
大人になると「社会人」「役職」「親」など色んな立場が増えてきます。それに応じて人格も増えてきます。
素の自分は子どものころの自分です。
ただ戻るには手がかりが必要ですが、最適なのは友人です。
大人になると高校時代のノリそのままの無慈悲な扱いが逆に心地良くも感じます。
友人に会うのは年に数回ですが、この時間は貴重な素の自分に戻れる時間です。
療育や子育ては自分のペースで
私は特別支援学校で先生をやっていました。
時折「この子すごいな」という子がいます。それは優しかったり、努力家だったり、空気を読みながらの無邪気な一面があったりとさまざま。その凄さは無理しているのではなくナチュラルな姿です。
そんな子の担任を持つと懇談で「そうなった理由」を探っていたものでした。
要はお母さんから昔話を聞くことにしていました。
共通するのは「昔は非常に子育てや療育に頑張っていた」という話です。ただある時点で「いい加減にやるようにした」というニュアンスのことをおっしゃいます。
具体的に言うと自身の趣味の時間を増やしたり、やりたかった仕事を始めたり、友達と遊ぶようになったり。
内容は様々ですが「母親でない時間」を増やしたのです。
中には「そうなるまでに葛藤しました」というお母さんもいます。「頑張らないといけない」「私はいい加減なのではないか」
そんなことで悩まれるのです。
障害があるから頑張るのか
私は特別支援学校で先生をやっていて、周りの先生に違和感を感じたことがあります。
先生らの行動や言動を見てると「障害があるから頑張らないといけない」そんな意識が先生にはあるように見受けられます。
「では障害がない人は頑張らなくてもいいのか?」と私は思っていました。
障害のある子でもない子でも、すべき努力の量は同じであるべきだ、と思うからです。
また実際に無理矢理頑張らせても良い結果は生まれていません。
大人も子どもも、障害の有無も関係なく人は結局はなりたい自分にしかならないんです。
素の自分に戻れる時間も必要
療育や子育てに精神的に疲れてきているのなら、自分のペースでやっていないからかもしれません。
「母親でない時間」も確保をする努力もしてください。昔の友人に会うのもその一つです。
昔の素だった自分に戻る時間も必要です。
それはいい加減などではなく、子どものためにもなる時間です。
お母さんの気持ちが身軽になると、子どもの気持ちも身軽になります。
それは見た目は楽をすること、手を抜くことです。
褒められるものではないですが、そうやって身軽になった人から良い空気が生まれてきます。
では身軽になれないのはなぜか。それは自分の心にウソをつくことが一つにあります。
挫折や失敗などの経験は自分の本心を覆い隠します。そして義務やノルマ、客観視から自分の行動を縛ります。
「自分が身軽になって子どもも身軽になる。それで心身が成長する」そんな事例があります。
「将来のために今は歯を食いしばって成長すべきだ」
そういうことではないんです。
親子ともに身軽になるお手伝いをするためにこのサイトを私はこうやって情報配信しています。
相談などは問い合わせフォームを設けてますので遠慮なく利用してください。