私は特別支援学校で先生をやっていました。
先生やっていて、また現在も卒業生たちと接していて「学校の教えと子どもたちの願いの間にはギャップがあるな」と感じています。
今回、そのそのギャップを強く感じた話です。
卒業生と話す近況
先日、私は卒業生の車椅子に乗る女の子と偶然出会いました。
近況でも話そうということで、喫茶店でじっくり話をすることにしました。
彼女は小学校、中学校を地域の小中学校で、高校は特別支援学校高等部に進んでいます。
現在は作業所へ通い、印刷などの仕事をしているとのことです。
休日は録画しておいたドラマを観たり、映画を観たりして過ごしているとのこと。
ファッションやメイクに興味があるけど車椅子では行ける場所に限りがあること。
仕事は自分のやりたいことではないな、と感じている。でも仕事を変えるのも現実的でない。
作業所はあまりおしゃべり出来る環境でなく、急かされる事も多い。
私は彼女に「今、何がしたいの?」と質問をしました。
彼女は「分からない」と答えました。
ただ以前の彼女は「こんなことやってみたい」と話していたんです。
私は「自身の気持ちが分からなくなっているのかな」と思って、観ているドラマや昔の想い出話など聞いていきました。
やがて彼女は「舞台をやってみたい」とか「お芝居が好き」と言えるようになっていきます。
「どんなときに『舞台やってみたい』とか『お芝居好き』とか思ったの?」と聞くとさらに答えてくれました。
「人に感動やメッセージを伝えられるのがスゴイと感じた」
そういった答えが返ってきます。
私は「小学校、中学校、特別支援学校の高等部の中で一番楽しかった時期っていつ?」と質問しました。
彼女は「中学校」と答えました。
理由を聞くと「友達と沢山おしゃべりをしていたあの時期が一番良かった」そう言いました。
「今はどうなの?」と私が聞くと
「中学校のときの友達とは今も連絡をとっているけど、大学行ったり、バイトしたり、社会人になったりして忙しそう」
「みんな自分の道を進んでいて凄いな、と思うけど、私はどうなんだろう、とも思う」
私はもう一度「今は何がしたいの?」と聞きました。
彼女は「アルバイトがしてみたい。ファッションやメイクとか一緒に話したり買い物に行ける友達が欲しい」そう答えました。
彼女は一般的な大学生や社会人のような生活に憧れているんです。また「自分の道はこれだ」と言えるものを求めていました。
学校時代に学ぶべきこととは
私は特別支援学校で10年近く働いていたので「学校とはそもそもどんな場所なのか」というのを肌で知っています。
学校とは常識やマナー、勉強や出来ることなど世の中にある「枠」を教わる場、出来ることを増やすための場所です。
でも「世の中はこうだ」と教わるたびに「自分はこうありたい」は消えていきます。
私は学校がそんな環境なので反対に「自分は子どもの夢を叶えられる先生でありたい」と考えていました。
「想いを抑えつけるようなことはしたくない」となるべく本人が自分で道を選べるように、と考えていました。
でも無理なんです。
私の考えは周りの先生からは「いいね」とは言われますが理解はされないんです。
立ち振る舞いによっては反感を買ってしまうものです。
それは先生が悪いとかではなく、本質的に学校は「夢や自分らしさ」ではなく「枠」を教えるところだからです。
私のやろうとしていたことは本質的に無理のある話なんです。
私はドラマや映画にもなった「Rookie’s」という漫画の川藤先生のように「夢にときめけ」と言える人でありたかったんです。
でもそれは漫画の中の世界でした。そして漫画の中でも川藤先生は職員室で浮いています。
川藤先生のように「君の夢はなんだ?」という姿勢でいればいるほど周りからは浮くんです。
強靱な精神力があればずっと先生でいられるのかもしれませんが「自分には無理だ」と私は思い知りました。
障害のある子の場合は違うんじゃないか
学校とは常識やルールなど世の中にある「枠」を学ぶ場所。
私もそれでいいと思います。むしろ学校が「枠」を教えないと秩序や共通の感覚を持てなくなり、社会全体としてマイナスでしょう。
個人の想いや夢や自分らしさは各家庭や本人自身が育むもの。
学校では世の中にある「枠」を学ぶ。それがあるべき姿です。
ただ障害ある子の場合は事情が違うと思うのです。
例えば障害のない子だったら、やがては自分一人で生きる術を身につけ、自分の望む道を目指すことも可能です。
でも障害ある子は「一人では無理なんじゃないのか」と感じるんです。
目の前に壁があると想像してください。その壁を壊せば自分が望むもの、自分らしい生き方があるとします。
障害のない子はいつかは自分で生きる術を身につけて、壁を壊せる方法が分かって「あぁ、これが自分の道なんだ」と見つける可能性が高いんです。
でも障害ある子は違うんです。
例えば彼女のような車椅子に乗る子では一人ではどうやっても壊れない壁があるんです。
理屈や世の中の仕組みでは「自分らしい人生」を見つけるのは本人の責任でしょう。
またそのために「自立」しなくてはならないのでしょう。
でも実際は一人では無理じゃないですか。
絶対に壊れない、越えられない壁が歴然とあって、やっぱり一人ではそれは壊れないんです。
今回の彼女だけでなく、色んな卒業生を見ていても思います。
『学校の教えは彼ら個人の幸せには直接繋がってないんじゃないか』
『もしそうなら学校の教えは一体何のためにあったんだろう』って思うんです。
今の仕組み、つまり学校で「枠」を学んであとは個人の責任、でいいんだろうか?ということです。
それは先生が悪いのではなく、そもそもが学校はそういう施設なんです。
例えば彼女の担任の先生を私は知っていますが素晴らしい人格者です。私はその先生を深く尊敬しています。
それでも壁を壊すのは本人になるんです。それはもう仕組みとしてそうなってしまうんです。
私ならどうするか
彼女の名誉のために言いますと、彼女は決して心の弱い人間ではないですよ
むしろ強い方です。「出来ないモノは出来ない」と認めて、自分のことよりも相手の気持ちや立場を考える優しさがあります。
同世代の若者と比べても精神的に強い女性です。
それらを踏まえた上で「私ならどうするか」を話します。
私が本当に自由に先生をやれるなら障害を課題にしないです。
例えば「右手が動かせない」とします。学校はこれを「課題」としますよね。
私はそれを課題としないんです。ケアや努力はするでしょう。
でもそれは課題、つまり本人が乗り越えなければならないものではないんです。
課題にするのは本人の心の有り様です。
社会的存在として本人なりの常識やマナーを身に付けつつ、自分らしさを保つ。
「枠」を学びながら「自分はこれだ!」と思えるものを見つけられるかが課題です。
具体性を上げれば心の強さです。
「自分で選ぶことが出来る」「自分の気持ちが言える」「イヤなものはイヤと言える」などです。
失礼なことを承知で言えば彼女は優しさが過ぎています。
「周りを困らせるんじゃないか」「これはワガママなんじゃないか」
そんな周りへの配慮が先にあって自分のやりたいことや本心を言う前に「でも迷惑なのでは?」と考え込んでしまいます。
彼女は「自分はどうしたいのか」「どうありたいのか」といった自分らしさを押し込めてしまうんです。
今まで彼女は内心迷いながらも周りにいる先生や福祉関係者の言うとおりに学び、進路を選択しました。
でもそれで彼女は今、日々に満足してないんです。「なんか違うな」と感じているんです。
この状況を打破するのは本人が自ら「こうしたい」と発信するしかないでしょう。
そんな”心の強さ”なんです。
時には先生や周りの人間に「自分のために行動してくれ」と言えるくらいの”強さ”です。
それはワガママじゃないんです。
「自分らしく生きる」という決意をするための”強さ”なんです。