私の知人に20代の筋ジストロフィーをもつ青年”景(きょう)”がいます。
彼は以前から「自分の経験を誰かに役立てたい」ということで自分の経験、学んだことなどを話してくれています。
今回は「自分の障害を知ったとき周囲にどうして欲しいのか」を話してもらいました。
昔の自分と同じ悩みを持つ人へ
[st-kaiwa1]まず始めに。自分の身体のことを知ったのはいつだったの?[/st-kaiwa1]幼稚園ごろから「周りと違うな」と思い始めて。小学校のころ「そうなんだ」と。
自分の身体のことを「見て見ぬふり」をしていた。自分の気持ちに真正面から向き合っていなかったな。
想いを溜め込んで誰にも言わなかった。「良い子になろう」としていたというのかな。「何も気にしていない自分」を演じていたと思う。「これを言ったら周りが困るだろう。だから黙っておこう」という気持ちがあった。
うん、どんな子でもいつかは向き合う事になると思う。自分にとってその向き合うきっかけがうつ病になったことだった。今振り返ればあの頃の我慢は良くなかったな、と思う。
病気とは全く違うことで悩みを昇華させた方がいいと思う。
自分は小さい頃モトクロスに連れていってもらった。その頃、自分の足で速く走ることは出来なかったけど、モトクロスに乗ったら違った。乗ることで速く走れた。
そのとき「そうか。道具を使えば速く走れるんだ。”速く走ることは出来ない”と思っていたのは思い込みだった」そう感じた。その瞬間に自分の世界が変わったように思えたから。
元々親が「病気なんか関係あるか!」って勢いでモトクロスやらせてくれて。あのとき大クラッシュもしたけど「やって良かったな」と思っている。
身体へのケアはいると思う。でもそれは自分の苦手な部分に向き合う時間になる。やった訓練を”身体のケア”として捉えるのはいいけど”身体の課題”とするのはどうかな、と思う。
「課題」とされたら段々億劫になるというか・・・誰でも気が滅入ってくるんじゃないかな。
「何でも同じようにさせよう。一緒にやるのがいい」という雰囲気はキツかった。例えば運動会だけど、速く走れないのに徒競走に出た。でも走れないからそもそも競争にならない。走るたびに最下位だった。
赤組も白組も自分を応援してくれたけど自分の走りは勝敗のポイントになっていなくて。「勝敗に関係ないからかな」とも感じた。
「ハンデ」としてゴール近くからスタートしたこともあったけど、やっぱり最後になる。
協調性も大事だし、一緒に参加するのも大事だけど、自分的には楽しめない。まぁ言ってしまえば”公開処刑”な気持ちになっていた。
どんな子でもいつかは自分の身体に気づくことになる。落ち込む時期は必ず来ると思う。その姿を見たら親も「どうしよう」と落ち込むのが普通だと思う。
でも、それでも親子では一緒に落ち込まない方がいい。
例えば子どもが崖から落ちそうだとして。子どもが落ちそうだっら親は引き上げなきゃいけない。なのに親まで一緒に落ちそうになっていたら子どもは頼れない。だから親は子どもを引き上げるために上にいて子どもを引き上げてほしい。
理想は「お互いが引き上げよう」という関係が出来ればいいと思う。親が子どもを引き上げて、子どもの元気な姿に親も気持ちが引き上げられて、というのが一番いい。
だから小さい頃は「親子が一緒に楽しめる」という経験がいいんじゃないかな。
好きなことを親子で楽しむ。今、そのときにしか出来ないことを全力でやる。大人になったら大きい車椅子になって行けない場所が増えてくるから。
小さいうちに色んな場所へ行くとか、今しか出来ない体験をするとか。
例えば自分にとってはそれが小さい頃やったモトクロスだった。そんな経験を子どもにさせてほしいと思う。
今、出来ることを全力でやる
景との話で結論に至ったのは「今、出来ることを全力でやろう」というものでした。
やることは話に出てきましたが、興味ある場所へ行ったり色んな体験をすることです。
これには悩みを昇華する、気力を養う意味がありますが、思わぬ副産物もあるんです。
好きなことから自分の可能性に気づけることが多いんです。
景の話で言えばモトクロスに乗って「速く走れた!」という感動がそれです。
その感動で「そうか。道具に乗れば速く走れるんだ」と気づけるんです。
これが言葉で「道具を使えば速く走れるんだよ」と言われてもピンとこないでしょう。
「出来た」「嬉しい」という感動がセットになって初めて自分の可能性に気づけるんです。
私は特別支援学校の先生やっていたときに、いじめに遭って自信を喪失した子の担任を持ちました。
彼には片麻痺がありました。右手がほとんど動かないんです。
自信を回復させるには「動く左手で何が出来るか」を体感させて自分の可能性に気づいてもらうんです。
私がその子と一緒にやり込んだのは野球です。私がピッチャーで彼がバッター。
彼は動く左手でバットをもって、遠くまでボールを飛ばしました。彼は飛んでいったボールを嬉しそうに見ていました。
その感動なんです。
その感動があって初めて「僕は野球が出来る」「左手を使えばボールを遠くへ飛ばせるんだ」ということに気づけます。
幼稚園や小学生くらいの筋ジストロフィーのお子さんのことで悩んでいる方は景の話を参考に今、出来ることを最大限に取り組んでみてください。
何が出来ないか、ではなくて「今、何が出来るのか」です。
それはどんな勉強や訓練方法にも勝る、生きる力になります。