私は先生という立場で学習塾や中学校や特別支援学校で子どもたちと接してきました。

その経験から「枠にはめられる子どもたち」の気持ちが分かるつもりです。なぜなら私も自分らしさを捨てて”枠”にはまったことがあるからです。

「枠」というのは校則やルールもそうですが「みんなと同じようにしよう」「普通はこうするよ」など文章にまではされていないけど、なんとなくあるその場の雰囲気、空気です。

 

「枠」にはまると自分らしさを見失います。

”子どもたちの代弁者”というとおこがましい気もしますがその辛さを言葉で説明出来ない子も多くいるのです。

 

これは障害ある子たちが通う特別支援学校ではなおさら顕著となります。

障害あるがゆえに先生の手助けが必要だったり、言葉で気持ちを伝えることが出来ない子がいるからです。

また抵抗したくても先生の方が強いので余計に「枠」にはめられます。

 

例えば私には兄がいますが、腕力もあり、頭の回転も早い兄は幼いころはとても敵わない存在でした。

どれだけおかしいと訴えても最終的には腕力で抑えられてしまいます。

もちろん、兄には「腕力で弟を抑えつけている」という意識はないはずです。でも私にとっては「自分はこの人に敵わない」というのを感じ取っているので、ある程度抵抗して「あ、これは無理だ」と感じとったら最終的には服従します。

 

ただ私はもう成人して腕力も知識も手に入れました。反抗する術をもったんです。

今更、兄弟喧嘩する気はさらさらないですが、反抗する術をもった私は「抑えつけられる」ことはもうありません。

嫌ならそこを出て行き、一人で生活すればいいんです。反抗する術とはそういった選択が出来るということ。

 

ただ障害のある子どもたちはどうでしょうか。

私が小さい頃感じていた「誰かに抑えつけられている」という感覚がずっとあるのではないか、そんな気がするのです。

 

自分らしく生きている状態とはこんな感じ

私が特別支援学校の先生だったころの感覚です。私はかなり変な先生だったようです。

「静かにしなさい」とか「こうあるべきだ」など先生らしい台詞を言ったことがありません。

 

子どもたちには「あなたの人生なんだからあなたが決めたら良い」と頭の中で常にそう考えていました。

 

実際に私がやってきたことは障害者スポーツの普及活動だったり、文化祭の総監督で1ヶ月間休みなしで働いてたり。

授業の準備で深夜遅くなることもありました。内容は子どもたちが喜びそうな教材づくりです。要は子どもたちのやりたいことに準ずることはいくらでも出来ます。

 

ただ子どもの気持ちに関係ない事務系はさっぱりです。簡単な学級会計すら満足に出来ません。

 

私は極端なんです。自分がやりたいことはお金はいくらでもつぎ込めるし、時間も惜しまない。

でも気が向かないことは何にも出来ません。それこそ並み以下です。

 

今振り返れば私は自分らしく先生をやっていたのだと思います。

 

自分のやりたいこと、好きなこと、どんな先生でありたいのかがハッキリと自分の中にあって、心の声に従っていたんです。

「子どもみたいな先生だった」と表現するのが分かりやすいですね。またそうあろうとする意識もありました。

 

自分らしく先生やっていた時期の心境は非常に毎日が楽しい。遅くまで学校に残っていても「これでまた一歩目標近づいたな」と喜んでいました。

日曜の夜も、月曜の朝も苦ではありません。

周りの先生たちは「月曜は憂鬱だー」とか「土日何する?」とかの会話が飛び交っていましたが、私にはその心境がさっぱり分かりませんでした。

 

周りの先生と私の違いは、私は「先生とはこういうものだ」というなんとなくある雰囲気や空気を無視して「自分らしく」先生という仕事をやっていたからでしょう。

もちろん周りにも合わせていましたが「ここは自分らしくやってもいいところだ」という仕事の隙間を見つけて、そこに全力投球していました。

 

「枠」にはまるとこんな感じ

ただ自分らしく先生やるのも限界を迎えます。

 

とある大きな事件が起きて、その責任が私に降りかかってきました。事件の直接の原因は私ではないので「なんで俺がこの仕事をやらないといけないんだ??」と理不尽な気持ちに見舞われました。そして1年間その責任や後始末に奔走されました。

その事件までに少しずつ「自分らしく先生を出来ない感覚」が積もっていたのですが、その事件が引き金で私の心は折れました。

 

「もう考えるのはやめよう」

「他の先生と同じようにやろう」

 

心底そう思ったんです。「終わった」という感覚が私の中でありました。

「自分らしく先生やる」というのを自分で終わらせたんです。

学校という大きすぎる組織にはいくら工夫して、隙間を見つけて自分らしくいようとしても敵わない、と悟ったんです。

これが会社であれば出世して、権力を握ることも可能かもしれませんが、学校の先生は基本平等です。だから無理だと思ったんです。

 

そこから私の日々はどうなったのか。

 

今までの真逆の状態です。

深夜まで残るのはやめて定時に帰るようになりました。周りの先生から「え?もう帰るの?」と私が定時に帰る姿に驚かれたほどです。

もちろん土日出勤はありえません。

 

日曜の夜になると明日が憂鬱で、月曜日の朝は「早く土日にならないかなー」と思うようになりました。

自分らしさを捨てて「枠」にはまって普通の先生になったんです。

 

また感情がなくなっていきました。今までは感動していたはずの物事でも感情が動かなくなったんです。

例えば今までは障害者スポーツの大会では前日眠れないほど興奮してましたが、淡々とやるようになり当日は「あれ、俺感動してない」と思いました。

 

文化祭や卒業式など子どもたちの姿に、今まで感動していたはずのシーンでも何も感じません。

今までは子どもたちや保護者の方と接していると「あ、ここは頑張ろう」と反射的に行動していた場面がありました。

 

それが同じような場面に出くわしても心が動かないのです。

頭では「今までの自分はここで行動していたはずだ」というのが記憶で分かっているのです。でも心が動かない。

子どもたちが困っていたり、喜んでいても何も感じないのです。

 

この時点で「このままだと自分の命が危うい」とも感じたので辞める決心をしたのですが、年度末の3月までは「あと何ヶ月で辞められる」と数えていました。底なし沼にハマっている気分でしたね。

 

私は「自分らしく」先生をやっていました。その日々は非常に充実した時間でした。

それを捨て去ることで完璧に「枠」にはまる先生にもなりました。「枠」にはまる日々は感情がなくなって地獄でした。「早く終わってくれ」しか頭にないんです。

 

だから私は障害ある子の周りにいる大人たちに言いたいんです。子どもたちを「枠」にはめるな、と。

私は抵抗する術をもっています。嫌なら辞めればいいんです。

 

でも障害ある子どもたちは抵抗する術がないんです。

嫌でもそこに居続けるしかない。だから子どもたちはどうするのか。

考えるのをやめるんですよ。そこに居続けるために感情を無くしていくんです。それしかないんです。

 

誰もが自分らしく生きたいはず

どんな人でも好きなことや、やりたいことや、憧れる姿があるはずです。

「野球が好き」「ワンピースのルフィが大好き」「嵐のDVDを毎日観ている」など自分の感情が激しく動くこと。それが自分らしさです。

ですが自分の感ずるままに、欲求のままに生きることは許されません。またそれは最終的に本人のためにもなりません。

 

よって子どもたちは学校へ行きます。先生はそこで家族や家庭以外の「枠」を子どもたちに教えます。

 

「授業中は立ち歩いてはいけない」「遅刻や忘れ物をせず毎日登校しましょう」などの「枠」です。

またなんとなく空気のようにある「こうあるべきだ」「普通はそうする」といった「枠」もあります。

 

学校とは家庭以外の「枠」を学ぶところ、先生は「枠」を教えるのが仕事。

「枠」を学ぶことは人生にとって必要です。

ただ「枠」を学んで、それに沿って生きる事が人生の目標ではないはずです。

誰かの決めたルールに従い、他人の目線や意見を気にしている姿が幸福とは私には思えないです。

 

私は「枠」の反対にある「自分らしさ」に幸せや「生まれてきて良かった」「毎日が楽しい」そんな瞬間があると思っています。

私は自分らしく仕事をやっていた時期と枠にはまって仕事してた時期の両方を経験しているから、肌身で分かるのです。

 

 

家庭は自分らしさを育むところ

「枠を教えるのか」「自分らしさを育むのか」

社会性を身につけながら、日々の満足感を得るには「枠を学ぶ」「自分らしさを育む」の2軸が必要です。

 

学校は「枠を教えること」が主です。家庭では学べない「枠」を学ぶために学校があります。

悪い意味でもなくて先生は「枠通りに行動出来ているか」を評価します。それが先生の役割であり、仕事です

ただ先生が職務に忠実であればあるほど子どもたちの「自分らしさ」は失われていくことに気づいている先生は稀です。

そして家庭にも同じ役割を求めてくる場合があります。

 

だから今、家庭に必要なのは「自分らしさを守る」という意識です。

 

学校が「枠」を教え込もうとするなら、家庭は「自分らしさ」を育む場所であるべきです。

学校も家庭も「こうあるべきだ」で進んでいけば、子どもたちはどこで自分の気持ちや夢に気づくのか。

 

自分の生活や将来に閉塞感を感じるのではないですか。

 

また障害ある子の場合、大きくなったらその閉塞感を打ち破る術を身につけるかどうかは定かではありません。

だったら私たち周りの人間から閉塞感を感じないようにどこかで「枠」を外す時間が必要なはずです。

 

でも障害ある子どもたち、特に重度の障害ある子ほどそれが言えないんです。

そして大人たちは子どもたちを「枠」にはめます。

そして褒め称えます。でも子どもたちの心の中は空虚なはずです。そこに「自分らしさ」はないからです。

 

私は「自分らしく生きている時期」と「枠にはまる時期」の両方を経験しました。

 

自分らしく生きている時期は日々が楽しかったです。「こんな時間がずっと続けば最高だな」と思ったことが何度もありました。

「枠にはまる時期」は感情がなくなっていく日々でした。「早く終わってくれ」ばかり考えていました。

 

子どもたちも同じです。彼らは「自分らしく」生きたいはずです。

学校へ行くのは「自分らしく生きるため」であり、そのための「枠」を学びたいはず。

 

ですが学校では先に「枠」を教えます。それは役割的には正しいのかもしれません。

ただ子どもたちは「何か違う」「僕が知りたいのはこれじゃない」と感じているはずです。

 

彼は何を知りたいのか。それは「自分らしさとは何なのか」を知りたいんです。

数ある物事の中から自分は何を好きと感じて、何に夢中になって、生涯の友人は誰なのか、居場所はどうやって作ればいいのかという「自分らしさ」を探しています。

 

学校が「枠」を教えるなら、家庭では「自分らしさ」を育むべきです。

 

もしお子さんが何かしら問題を抱えていたら「この子は自分らしく生きたいんだ」という目線をもって子どもをみてみてください。

今まで理解出来なかった子どもの行動の意味や心の有り様が分かるはずです。

 

頭の片隅でも構いません。「自分らしさが大事なんだ、大切なんだ」と考えてみてください。

 

それがお子さんの問題を解決し、心の成長につながり「生まれてきて良かった」と思える瞬間に出会うための方法です。

今、子どもたちが心底求めているのは「自分らしさ」です。