現在、公開中である映画『この世界の片隅に』を観てきました。
まず映画の感想から。何気ない日常を丁寧に表現して過度な演出をしない。
先日『君の名は。』を観ましたがまた違う方向性です。非常に良かったです。
日本アニメすごいですね。
『聲の形』『君の名は。』『この世界の片隅に』となぜかアニメ映画ばかり観てますがヒットばかりです。
さてその『この世界の片隅に』ですがタメになる映画でもありました。
映画観たことない人には恐縮ですが、『この世界の片隅に』から数本か記事書いていきます。
この感動は一本では収まらないのです。
というわけで第一弾です。
『優しくなりなさい』ではなくて
沢山の人と出会っていくと『ああ、この人の優しさは形だけだな』って思うことありませんか??
ここでは具体的に書けませんが私自身、学生、社会人とそんな人に出会ってきました。
というか私の判断基準を言いますと「性格を知りたければ行動だけみればいい」と思っています。
「言葉は信じちゃダメ」なんです。なぜなら言葉で優しい台詞はいくらでも言えます。
『俺はこの世界を救ってみせる』
と言葉で言うことは出来ますよね。
でも行動は別なんです。
行動はエネルギーがいるので本当に世界平和のために行動するのは本気じゃないと出来ません。
だからその人の本心や性格を観るときは行動をみるといいですよ。
言葉ではなく行動が本音ですから。
・・しまった、何の話だ。
優しさの話でした。
『優しい人になってほしい』
そういう想いでお子さんと接されている方は多いはず、というかみんなそうかな。
ただ『優しい人になりなさい』や『優しくするのが正しいことでしょ?』はちょっと違うのです。
理屈や言いつけで身につけられる優しさは「形だけ」になりやすいもの。
『優しい人になりなさい』ではなく『優しい人になろう』と決意することです。
それが『この世界の片隅に』でも表れていました。
座敷童子にスイカをあげるすずさん
この映画ですが時代は昭和の戦時中が物語の中心となっています。
主役はすずという女性です。
すずは広島で生まれ、呉という軍の基地がある町に住む北条家に嫁いでいきます。
映画前半はすずの幼少期の話です。
物語中盤からすずはのんきさだけではなく、心の強さ、心根の優しさを見せてくれるのですが、その根本となるようなエピソードがありました。
すずが幼少期の話。家族で泊まった親戚の家で座敷童子(ざしきわらし)という”妖怪”に出会います。
座敷童子は縁側にあるスイカを勝手に食べています。
それをすずだけが気づくのですが、すずは咎めるどころか『もっと貰ってきましょうか?』と新しいスイカをもって来ようとします。
ただスイカをもってきたとき座敷童子はいつの間にかいなくなっていました。
すずはもらってきたスイカを持ちながら途方にくれます。
そのすずに対して大人は咎めることなく『寝ぼけてたんじゃないの?』と言うだけ。
「スイカを渡せなかった」
このことをすずがどう思ったかは分かりません。
ただ座敷童子の着ていた着物がみそぼらしかったのを思い出しておばあちゃんに尋ねます。
『(キレイな)着物をここに置いとったら着に来るかな?』と質問するのです。
そんなすずに対しおばあちゃんは『すずちゃんは優しいねぇ』と褒めます。
そのあとすずの内心の言葉なのですが『人から優しいと言われたのは初めて』と流れてきます。
こういうことなんです。
『優しくなりなさい』『優しさが正しい』ではなく。
お手本となる優しい家族がいて自発的な親切心を誰かが褒めてくれた。
こういう経験が性格を形作ります。
見本を見せること
自分で選ぶこと
この二つが形だけに終わらない優しさを生みだします。
自分自身で『優しい人になろう』と思うことが大事なんですね。
実生活でも同じことは起きている
見本をみせること
自分で選ぶこと
この二つによる結果は実生活でも起きています。
例えば私は後輩と食事にいった際は食事代を出す習慣があります。
なんでこうなったかというと、学生時代に先輩におごってもらったから。
そのおごる見本と「あ、俺も先輩になったらおごる人間になろう」と自分で選んだことが今につながっています。
このような経験は思い起こせば誰にでもあるはずです。
良い意味でも悪い意味でも子どもはお手本をみて学びます。
言葉によるお説教は形だけになりやすいもの。お手本の方が遙かに大事です。
みるべきは自分
『やりなさい』とか『これが正しい』と課題を与えてそれが出来たかで進める教育は限界があります。
優しさでも勉強でも訓練でも、言葉だけでは形だけになりやすいのです。
性格を決めるのはお説教ではありません。※信頼関係が深ければお説教もOKですが。
「見本を見せること」と「自分で選ぶこと」が形だけで終わらない方法です。
学校の先生で説明してみましょう。
『優しくなりなさい』『あなたは間違っている』という表現で子どもたちに優しさを教える先生がいます。
でもこれは言葉だけです。
言葉ではなくて『先生自身が優しいかどうか』が大事なんです。
子どもたちに自分がお手本を見せられているかどうか、が分かれ道で言葉は補助手段にすぎません。
「子どもが優しいかどうか」は気にする必要はないんです。
先生自身が気にするべきは先生自身の姿です。
「「何を言ったか」ではなく「どんな姿を見せたか」が大事です。
それはみなさんの子ども時代を想い起こせば当てはまってこないでしょうか。
というわけで優しさも努力も勉強でも何でも同様です。
子どもたちの性格を決めるのはお手本です。
あとは子どもたちが自分で選ぶこと。
それさえ出来れば子どもの行動や結果は気にしない方が賢明です。
私は先生をしていたのでよく目にしましたが「子どもたちが良い子がどうか」を気にする先生はイライラしています。
反面「自分はどんな人間であるか」を気にしている先生はイライラしません。
みるべきは自分の姿です。それはイライラを抑える手段でもあります。