いきなり私の話になりますが、私は関西でいう「いらんことしい」です。
「いらんことしい」とはやらなくてもいいことをわざわざやる人のこと。
私が大学生のころのクラブ合宿での話。夜中にみんなで集まり怪談話をしていました。
怪談は盛り上がってますが私は酔っており話が入ってこない。
「この状況でリアルお化けが出たら恐怖だろうなぁ」
そう閃いた私は一人宿の外へ抜け出し、庭から部屋の窓まで移動。中から友人らの声が聞こえてきます。
誰かの怪談話が終わったのと同時に「ガタガタ!」と窓を揺らしました。
「ぎゃーー!!」と絶叫がこだまします。
「してやったり!」と私は部屋に戻りました。
部屋では女子マネージャーが泣きながら自分の部屋へ帰っていきました。
私は土下座して謝りました。
・・あんまり良い例じゃないですね。
大人になると愛情表現は工夫しなければなりません。
子どもと一緒に遊ぶ大人は好かれるのはなぜでしょうか。
それは愛され感が増すからです。
小さい頃は食事や着替えなど身の回りの世話だけで愛情を感じます。
自分一人で出来るようになるとスキンシップがなくなります。
愛され感がなくなっていくんですね。
学校行くとそれはますます強くなって「勉強しなさい」「休んじゃだめ」など言われます。
「僕は(私は)愛されているの??」と疑問に思ってしまうわけです。
でもハグや抱っこはもう出来ないですよね。※別にしてもいいですが。
子どもと一緒に遊ぶというのは、抱っこやハグと一緒。
愛され感を増す行為です。
私は特別支援学校で先生していたのですがいじめを受けて支援学校に入学してきた子を担任しました。
彼は目に力がなく、背筋がダラッとしています。
話し方がだるそうで自分より出来ない子を笑う傾向がありました。
「愛され感がなくなっているんじゃないか」と私は思いました。
愛され感というのは世間や学校でなくしやすいもの。いじめは最たるものです。
聞けばかなり陰湿でお母さんもどうしようもなかったとのこと。
逃げるように支援学校へ来たとのことでした。
「とにかくこの子の愛され感を回復させよう」
と私は思いました。学校でなくした愛され感は学校で回復すべきもの。
こういう場合はルールやカリキュラムは無視した方がいいことが多い。
私は自立活動をほとんど彼との遊びに費やしました。
野球やサッカーやバスケなど彼のやりたいことを最優先にします。
また彼は生き物が好きだったので生き物シールを用意して頑張ったら一覧にはることにしました。
空き時間は彼の好きなアニメの話題をずっと聞きました。
それが私のハグや抱っこなんです。
学校は・・というか私はですが「君を愛しているよ」というメッセージです。
親子愛ではなく教師愛のようなものです。
2学期後半になって彼は目の色が変ってきました。
連絡帳には「学校が楽しみと言っています」と書かれてありました。
遊び心って大事なんですよ。
「この子の好きなものってなに?」
「やりたいことってなに?」
と察してそれを大事にする。出来れば一緒にやる。応援する。
自閉症の子も、発達障害の子もみんな同じです。
子どもは愛され感の上下で変わるんです。
学校とは「やりなさい」という教育ですが、愛され感を無視していますよね。
お子さんの愛され感に注目してみてください。
今この子は愛情を感じているのか。
目の色は?声色は?未来へ希望を抱き優しい言動があるのか?
愛され感が増すと目は輝き、声に張りが出て未来に希望を抱きます。
愛され感がMAXになると自然と周りへ優しくなります。
私自身「やりなさい」という教育観に染まり失敗したことがあります。
「いらんことしい」は決していらんことばっかじゃないですよ。
お子さんの愛され感に注目してください。
コツは遊びです。