みんな客観性に飲まれる

「客観性に飲まれる」という現象が人間にはあります。

何をするにも、「周りがどうか」を頭に浮かべて行動する。

それは大人になったという1面があるけど、自分がなくなるという1面でもあります。

 

最近、実家へ帰りました。

私は髪を切りに月1回は帰るようにしています。

別に「帰ってこい」と言われたことはなく、帰りたいから帰っています。

 

髪を切りに行く際は、なるべく歩くようにしています。

自己啓発でこれは大切な時間です。

 

啓発とは子どもの感覚を取り戻すことを言います。

実家周りを1人で歩くと、子ども時代の感覚が呼び起こされます。

田んぼ周りを歩くと足が止まりました。

「昔、のぞき込んで何かいないか探してたな」と思い出しました。

 

幸い周りに人はいません。

歩幅落としてゆっくり歩いてみることに。

・・写真では全く分からないですね。すみません。

ゆっくり歩くと田んぼの中は色んな生命がいることに気づきます。

背の低い子どもなら、尚更よく分かるでしょう。

 

大人になると地面との距離が遠のきます。

おかげで先は見通せますが、足元にある賑わいが見えなくなります。

「俺、不審者だな」と思いながら撮りました。

客観的にみたら怪しい。

 

子ども時代は田んぼがもっとリアルに見えていたことに気づきます。

好奇心が高まってきました。

目をこらすとオタマジャクシが泳いでいました。

 

しばらく歩くと、ビュン!っと溝を素早く動く何かがいました。

「止まった。まだいるはず」と思い、足音立てずに近寄ると。

蛙を発見。※葉っぱの下に蛙がいる。

周りにはそれらしき生き物はいないので、先ほどの動きは彼のようです。

 

「子どもだったら溝に入って捕まえるか、もっと探すだろうな」と思いました。

ただそこまでやる気が起こりません。

私もどこかで客観性に飲まれているのかもしれないですね。

 

岡本太郎という芸術家がいました。

「太陽の塔」で知られる芸術家です。

岡本太郎氏は己を深掘りしていたと思います。

まとわりくつく客観性を排除して、己にある感性を引きだそうとした。

どこまで客観性を拭い捨てるかは人それぞれでいいと思います。

岡本氏までやる必要はない、ということです。

 

ただ今に不満なら客観性は拭うべきだと思います。

私たちは知らぬ間に、客観性をまとい、日々に彩りを失っています。

 

岡本氏はこんな言葉を残しています。

「怖いと思ったら、そこに飛び込んでごらん」

 

メチャクチャだと思うかもしれませんが、私はこれを優しい言葉と思いました。

 

岡本氏は芸術家を目指すとき「死」を覚悟したそうです。

氏は若い頃をこう述懐しています。

「芸術家でメシは食えない。メシが食えないと死ぬ。よし死のう!と僕は思ったんです」

 

飛び込んだ本人だから言える言葉ではないでしょうか。

「僕も怖かったけど、飛び込んでみたら大丈夫だったよ」という優しさのように思えるのです。

 

「私たちは知らぬ間に客観性に飲まれている」

そんな意識をもってみてください。

 

拭いさったら、自分だけの感性が待っています。

感性とは子ども時代に感じたあのリアルな感覚です。

 

どこかでストッパーをかけているモノが人間にはあります。

学校や社会や、人とのふれあいで、良くも悪くも客観性を帯びてきます。

 

キツくなってきたら、拭ってみましょう。

 

子ども時代は変にまとわりつかないように。

時には逃げても、戦ってもいいと思います。