私はボッチャという障害者スポーツの協会役員をしています。
ボッチャの選手ではなく、団体運営をしたり、講習会開いたり、大会運営したり裏方役です。
「ボッチャやってて良かったなぁ」と思う出来事がありました。先日、とある県からボッチャ団体を運営されている方が私の住む滋賀県へ来てくださいました。
このブログを読んでくださっている方でもあります。
「ボッチャについて語りましょう」ということで、体育館で90分ほど一緒にボッチャしたあと、居酒屋へGOです。
自分と同じ事を考えている人がいた
私は特別支援学校で働いていて、先生の中では浮いている存在だったと自覚しています。
ボッチャに使った時間とお金は数知れず。職員室では「ボッチャマン」という影のあだ名がついていました。
大晦日の日も道具つくったり、大会運営やったり、協会開いたり。
これらは全部自分のためにやっています。楽しいからやっているだけです。
またなるべく学校や何かしらの団体の傘下に入ることを嫌いました。傘下に入ると自分の思い通りに出来ないからです。
そんな私と同じ感性を持つ人に出会いました。それがボッチャのために滋賀県に来てくださった方々です。
話を聞かせてもらうと私と同じ考え、同じ行動をとっておられました。
そして私もですが「周りからは浮いているんですよー」とのことでした。
「やっぱりそうですよね!」と仲間に出会えた心地がしました。自分の考えでいくと周りからは浮くものですから。
ただ同じ感覚を持つ人とは結びつきが非常に強くなります。
この喜びは普段、大勢の中に入っている人には分からないはずです。
滅多に話せない自分の価値観を話せる時間は何よりも楽しいものでした。こんなときの居酒屋は最高です。
写真いっぱい撮るつもりで、デカいカメラ持ってたにも関わらず撮ったのスマホの一枚だけ。
しかも食べさしです。
学校で教えないことの方が大事
私は先生やっていて「いや、これ意味ないでしょ」と思ったことが何度もあります。
学校というの常識やみんなと同じという「枠」を教える場所です。ただそこに喜びはなく、あるのは安心くらいでしょうか。
私は喜びとは「気の合う仲間と好きなことをやっている時間」に尽きると思っています。
その時間に繋がることが意味のあることです。
自分が幸せにならないとルールや「みんなと同じ」も守れたものじゃありません。
みんなから浮いても、それはそれで喜びはあるものです。
私が周りの先生と同じことをしていたら、昨日の美味すぎるビールは飲めなかったでしょう。
大事なのは自分らしさです。
先生は「枠にハマる」ことを求めてきますが、そこにハマらなくても生きているし、喜びはあるものですよ。