今日は、とある障害者団体さんの集まりでボッチャをしてきました。

ボッチャというのは障害ある人もない人も参加しやすいスポーツ。私はこのボッチャの県協会役員をしています。

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私は以前は特別支援学校で先生をやっていたのですが、この日は偶然に、以前に担任していた生徒が二人来ていました。

2時間ほどの時間ですが、昔のノリそのままに非常に楽しい時間でした。

 

ていうかなんでこんなに楽しいのか

「あれ?なんでこんなに楽しいんだろう」

今日のボッチャ中に思ったことです。

 

「久しぶりだから」「伸び伸びと仕事してたときの二人だから」

そんな理由が頭に浮かびましたが、どうも違います。私の内面が変わったのです。

 

先生をやっていたときは「先生として」二人に接している部分があったのです。

「指導しなくちゃいけない」「問題を起こしてはいけない」などです。

今日は先生ではく、素の自分として接していたからあれだけ楽しかったのでしょう。

 

先生やいじめっ子の気持ちが分かった気がする

「この二人の担任してたときが一番楽しかった時期かも」

そうも思えてきました。振り返ればそれ以降、段々と仕事キツく違和感が積もっていたかのように思います。

 

「なんでだろう?」とボッチャ中に不謹慎ですが考えていました。

 

原因は「他人の目や評価を気にしだしたからだ」そう思いました。

先生として経験を重ねると色んな情報が入ってきてます。

「こうあらねば」「他の人はこうしている」「スゴイと思われたい」そんな感情があったと自覚しました。

 

特に「出来ない先生と思われたくない」という感情がやっかいです。

先生は「指導する人」なので指導が行き届いてない状態は先生の価値観では悪い状態です。言うとおりに行動している状態を「良し」としてします。

 

『仕事が楽しくなくなってきたのは「出来ない先生と思われたくない」という感情が強くなったからじゃないか』

そう思いました。

 

同時に「あ、いじめっ子の心理ってこういうのもか」とも思いました。

 

客観的に人を縛ると自分も苦しむのではないか

私は先生時代、昔の方が「自分はどう感じているのか」で行動していたように思います。

それが次第に「周りは自分をどう感じているのか」「自分のポジションは?」など他者との比較をしていたように思います。

 

そして「この感情を他者に向けるのがいじめっ子じゃないか?」そう思いました。

 

私が中学1年生のころ、クラスでいじめがありました。

 

ある男の子が容姿を理由にいやがらせを受けてました。その子の容姿に対し私自身も「普通とは違うな」と認識していました。

「普通じゃない」と相手に思えば、それは同時に自分にも向かいます。

「この人は普通じゃないけど俺はどうなんだ?」ということです。

 

そして「普通であらねば」という意識が強まります。

強まるとやがては「自分はどうしたいのか」「何を感じているのか」が分からなくなります。

 

ありのままを見れる方が幸せなのかもしれない

目安ですが、小学校3年生くらいまではどんな子も「ありのまま」を見ます。

ただ4年生を超えるくらいから常識や他者目線を知るようになります。

 

そして常識や他者目線で「みんなと違う」「普通じゃない」と誰かを判断することになります。

それは同時に恥の感覚を生みだしてマナーやルールが身に付けていくもの必要はあるものです。

ですが、自分を苦しめるものでもあるのでしょう。

 

「普通じゃない」「みんなと違う」という理由で攻撃する人は自分自身にも「自分は普通なのか?」「普通通りにやらなくてはダメだ」という意識が働くはずです。

 

「それは非常に生きづらいな」

そう思ったのと同時に中学時代の自分や先生という仕事を楽しめなくなった時期の自分を思い出しました。

 

「自分もそうだ。相手に常識を当てはめて、同時に自分にも常識を当てはめていた」

「ありのままで物事を見れなくなった」そう振り返りました。

 

今日、再会した支援学校時代の教え子たちは物事をありのままに見ることが出来ます。

 

「最低限の客観性や他者目線が身につけばそれでいいんじゃないのか」

「主観で生きるのも悪くないな。もしろそちらの方がいい」

そう感じた一日でした。