「やろうと思えば出来るはずなのに何でやらないんだろう??」
「私の教え方が悪いのかな??」
今回の話、障害ある子の教育や療育で悩んでいる方の一つの回答になります。
私は特別支援学校で先生をやっていました。「色んな指導方法を試したけどうまくいかない」そんな事態に何度も直面しました。
「自分の学びが足りないんだろうか」と色んな先生のやり方や行動を真似たりしましたが、結果は変わらないんです。
そうして分かったのは相手の気持ちや心の状態の問題でした。
〇〇勉強法といった方法の前に子どもの気持ちがあって、そこに下地を作らないと何やっても同じなんです。
今回はその一例、片麻痺で動かない右手を頑なに使わない男の子がいました。
私が担任している間に彼は右手を使うようになったのですが、そのきっかけの話です。
心にある意欲ややる気は理屈やあらゆる勉強法や訓練法を乗り越えます。
不便でも右手は使わない
片麻痺の彼は小学校時代はいじめに遭っていました。右手が動かないことや見た目などを攻撃されたとのことです。
私が彼を担任したのは中学2年生から。1年目は違う先生でした。
その前の年度、私は違う学部にいたので、彼との面識はほとんどありません。廊下ですれ違う程度です。
見た感じは大きな問題を抱えていなさそうに見えるのですが、内実は違うものが、
新年度は最初に個別の指導計画を元に1年間の計画を立てていくのですが「右手を頑なに使わない」という話が出てきました。
昨年から彼を知る先生曰く「麻痺してるといえど全く動かないわけではない。使った方が便利なはずなのに使わない」「動作法訓練などで促せば使うが日常生活にまでは影響しない」といった話でした。
便利なのに使わない、褒めても促してもやらないのだそうです。
実際、私が彼と接していても右手は使いません。靴の履き替えでも、着替えでも片手でこなそうとします。
でも訓練の時はそこそこに動くんです。でも普段使わない。私より経験ある資格をもった先生でも同様です。
訓練で頑張れば「すごい」「やったね」と褒められます。それでも日常は変わらないんです。
とにかく何もしない
彼と付き合ううちに分かってきました。彼はとことん自分からは何もしない、のです。
「右手を動かそう」と言えば右手を動かします。「国語をやろう」と言えば国語をやります。前年度からの引き継ぎで「百ます計算好きだよ」と言われてやってはみたものの、楽しそうではない。
どんな勉強でも訓練でも最低限やって先生から褒められています。
でも褒められたのをきかっけに、生活面が良くなった、笑顔が増えたとかそうはならないんです。
「毎日が楽しくないんだろうな」と私は彼の学校生活をみて思うようになりました。
勉強法や教え方の問題ではないな、と。
とはいえ彼は優等生と言えば優等生です。先生に言われたことは最低限やるので「悪い」という評価ではありません。
ただある日、私との訓練の中で「こうしよう」「ああしよう」とやっていたら急に動かなくなりました。
金縛りにあったかのように一点を見つめています。言葉掛けをしても反応がありません。
「固まっている状態」と言えばいいでしょうか。口は何やら動かすのですが、意識が感じられないのです。
ここで確信が持てたんです。
「この子は先生の『やりなさい』という指導に疲れ切っているんだ」
「外見上では優等生。けど内心は楽しめてない。」
「この状況で勉強させても意味がない」
ということです。
そもそも彼は小学校時代のいじめの影響をまだ引きずっています。
というのも学校では優等生ですが家では家族に悲しい言葉を言ったり、モノを壊すなどをしているからです。
「学校で見せている姿は本当の彼じゃない」と私は考えました。
当時の私は今ほど、意欲ややる気の重要性を見いだしているわけではないので「とにかく日々を楽しくしよう」と考えました。
「勉強や訓練しても意味がないならやらなければいい」
それよりも「学校来るのが楽しい」と思えるようになれば、最低限ここに通う意味はあるだろう、と考えました。
今までやらなかったことに正解はある
「今までやらなかったことに正解はある」
私はそう思います。彼の場合もそうでした。
「勉強や訓練は意味がない」と思ったので私は担任である権限を使って彼と遊びました。
表向きは「不自由な右手を使うためにスポーツするんですよ」としていましたが「両手でバット持つように」みたいな指導は最初だけ。
実際は動く左手でバットを持って野球やって、バスケットボールでドリブルやシュートをしていました。
みんなが訓練室で苦手分野を克服している間、私と彼は二人で体育館へ行って、自由に動く左手でスポーツしているわけです。
先生公認によるサボり行為です。
彼はバスケや野球にハマっていましたが、この時間は他の勉強では見られない姿がありました。
それは「言われなくてもやる」ということです。
例えばバスケのフリースローは片手で身体の小さい身体では届かないんです。でも挑戦し続けます。昼休みには自分から体育館へ行って投げ続けます。
野球では私がピッチャーで彼がバッターでした。
私が投げて彼は空振りをします。空振ったボールを彼は自分で取りにいって私へ返してきます。
たまに「ピッチャーやりたい」と希望も言います。
まぁ私は打ててしまうので長く続かないですが自分から行動して「これをやりたい」と言います。
彼はやがてホームラン級のボールが打てるようになります。
バスケットゴールのリングにぶつかるまで届くようになりました。
「もうすぐ入るようになる?」と授業終わりに彼はよく聞いてきました。
やがて彼のシュートはリングを越えてゴールにも入るようになりました。
私とその成果を確認したあとクラスに帰って他の先生にも自慢していました。家に帰ってもそんな話をしたと思います。
やがて連絡帳にはお母さんから「『学校が楽しい』と行って登校するようになりました」と書かれるようになりました。
右手はどうなったのか
「学校が楽しい」という連絡帳の記載ある頃から彼の様子は目でも確認できるくらい変わりました。
右手を使うようになったのが顕著な例です。
私はもう「右手を使おう」とは一切言わなかったですが、他の先生が「使うようになってきた」という報告は受けていました。
そして驚いたのは音楽の時間。
音楽の授業でクラスメイトで片麻痺の彼より障害の重い子が時間かけて楽器を「チーン」と鳴らしたんです。
その姿に先生らは「おぉー!」と拍手します。
すると彼も右手と左手で彼なりに拍手しているんです。
個人的な話ですが、この光景にはキました。
「くだらないこと」に目を向ける
ここで注目というか考えてほしいのですが私と彼がやったことって「くだらないこと」なんです。
彼を変えたのはスポーツの時間だったと思います。また私との日常の会話だったと思います。
でも学校ではこれらは「くだらない」「意味がない」とされることなんです。
実際に彼とスポーツしていた時間は他の子は訓練室で臨床動作法という訓練をしています。他の子は自分の出来ないこと、苦手なことに向き合って自立に向けて頑張っているんです。
私と彼はその時間体育館で野球やサッカーやって彼は動く左手しか使ってません。
実際に私のやっていたことは周囲の先生から不評で「もっと訓練すべきだ」「あいつは遊ばせている」「子どもをダメにしている」と言われました。
見た目は確かにそう見えるんです。障害に向き合っている時間は人間として立派でしょう。
でもそれで結果は出ないんですよ。
結果が出るのはいつも心の内面です。
好きなこと、楽しいことから「自分らしさ」を育むことで子どもは前向きになり、意欲が湧いてきます。
それが療育や勉強や訓練の下地になるんです。その下地がない時点では何やっても意味はないんです。
ではなぜ学校は下地を作らないのか、この考えは広まらないのかというと学校は見た目を気にするからだと思います。
私は「子どもの夢を叶えられる先生になりたい」という目標がありました。
その目標のために見た目は二の次でした。「立派な人間になる必要はない」と思っていたんです。
ただそれでは周りの先生からは理解されないんです。
理解されない理由は私の不徳もあるのでしょうが、気づいたのは「学校は基本的に見た目を整える施設だ。立派で頑張る姿を評価する場所なんだ」ということです。
でもそれでは解決しない問題があるんです。
周りの評価を高める事ばかりしていると「自分らしい生き方」からは離れていくんです。
彼とのスポーツの時間は「自分は何が好きなのか」「出来ることは何なのか」「学校でやりたいことは何なのか」など自分らしさを見つける時間でした。でもそんな時間は見た目には遊んでいる、頑張っていない姿です。
「くだらない、意味がない」と評価する人の方が多いんです。
お子さんを育てている中で「なんでこんなのが好きなの?」「もっと合理的な方法があるのに」など感じることがあるでしょう。
それは確かにくだらないし意味ないんです。
でも本人にとっては切実な問題です。
そして、周りからはくだらないはずのものが「好きだ、大切だ」と思える、それが「その子らしさ」です。
価値観を常識や世間の評価、学校の先生の意見ではなく「その子らしさ」に置いてみてください。
前向きさ、生活や勉強への意欲、モチベーションを上げるコツはそこにあります。
意欲が高ければ最新の教育方法でなくても子どもは成長していきます。出来ることだって増えていきます。
別に「世界一立派な人になって欲しい」とは思ってないですよね。なら意欲を高めるだけで充分です。