『しつこい』

と怒られそうですが映画『この世界の片隅に』のレビュー第三回目。

 

私はこの映画を大いに気に入って原作本の上中下の3冊買いました。買った理由は感動したのもあります。ただ、みなさんにも『これは是非みてほしい』と思ったので記事書く際の資料としても買ったのです。

 

だからあれなんですよ。結構お金かかっている記事なんですよ(笑)

だから元をとらねば・・じゃなかった、何度も記事にすることで映画の良さを知ってもらい、生活のプラスになればなぁと願っております。

 

今回は心の有り様が世界を変える、という話。

私は特別支援学校で先生やっていましたが、ほんとーにっに大事な話です。お子さんはもちろんのこと保護者の方や誰にでも当てはまることですよ。

※今回ネタバレ多いにありますので未見の方は注意してください。

 

”障害があるから”世界は明るく見えないのか

繰り返しますが今回3回目ですし、もうネタバレで行きますよ。

まだ観てない方はここで終わらせてくださいね。

 

映画『この世界の片隅に』は主人公は北条すずという女性です。

photo by konosekainokatasumini

物語の舞台は戦時中の広島県呉市。呉市には軍事工場があって敵軍からの空爆によってすずの住む呉市は破壊されていきます。

敵軍の爆弾によってすずは右手を失います。身体障害者になるのです。

 

すずは自他とも認めるのんきな性格。朗らかでもあり、周りを和ませてくれます。

ただすずも物語中落ち込む場面を何度か見せます。その最たるものがこの右手を失ったときです。

 

すずの好きなことはは絵を描くこと。ただ右手を失い好きな絵は描けなくなりました。

すずは嫁として北条家に嫁いでいますが家事や身の回りのことも人手を借りなければなりません。

義理の両親を世話をするどころか自分が世話されることになります。

 

「右手を失ったこと」それを考え続けるすずは自分の心境を『歪んでいる』と表現します。

例えば自分の怪我が早く治りそうなこと、夫に「無事で良かった」と言われたこと、空爆で家が燃えなかったこと。

それらを周囲の人間は「良かった」と表現します。

 

しかしすずはそれを「何が良かったのか分からん」と感想を持ちます。

これは右手を失う前のすずなら考えられなかったこと。以前のすずなら持ち前ののんきさで「良かった」と思えていたはずです。ただそれが出来なくなっています。

 

街を歩いて空爆で亡くなった人を見かけても何も気にかけなくなっています。

実の兄が戦争で家に帰ってこないのも気にしません。むしろ兄は苦手な存在だったので「帰ってこなくて良かった」と思うほどです。

 

すずはそんな自分の心境を『冴えない心だ』と表現します。

 

冴えない心を変えたもの

すずは右手がなくなり、嫁ぎ先の北条家に「自分の居場所はなくなった」と感じます。

 

すずの事情を説明しますと、すずは元々、北条家の生活に馴染めずにいました。

義理の母親は足が悪く誰かの介助がいります。

嫁いですぐに「これで母親の看病をする人が出来た」と言われます。義理の母の世話役を求められていたのです。

 

夫の周作は結婚前には別の想い人がいて、すずと周作はお見合い結婚のような形で結婚しています。

義理の姉はすずに対してキツく接してきて、ストレスですずの頭は10円ハゲが出来るほど。

 

夫にはどうも結婚前から自分とは別の想い人がいて。

義理の母親の世話役で嫁いできたら右手を失い世話どころではなくなって。

自分に冷たい義理の姉の世話になりながら生活するのです。

 

やがてすずは夫である周作に「実家へ帰る」といいます。周作はすずに対し「ここにいて欲しい」と伝えます。

ですがそれだけではすずは北条家に残れません。すずが実家に帰りたいのは夫の気持ちだけではないですから。義理の母親や姉に負い目があるのです。

 

やがてすずは本当に実家に帰るための身支度をします。

ただ最後の帰る日に義理の母から「すずさんが居なくなると寂しくなるねぇ」と言われます。

 

そして最も負い目を感じていた義理の姉から「あんたの世話をやくことはイヤではない。すずさんがイヤでなければずっとここに居ればええ。くだらん気兼ねなどせず自分で決めな」と言われます。※すずが何故義理の姉に一番の負い目を感じていたかは映画を観てください。ここでは伏せておきます。

 

夫からも義理の母親からも姉からも「ここに居て良い」と言われたのです。

 

この言葉ですずの冴えない心は終わります。「ここに居たい。居させてください」と自ら北条家に残ることを選択します。

そしてこれを転機にすずは大きく変わり、自分で考えて行動する逞しさが出てきます。

 

すずの心を強くしたものはなにか

すずが冴えない心になったのは失った右手のことをずっと考えていたからです。

 

心が冴えなくなると世界も冴えなく見えます。

今まで良いと思っていたものが良いと思えなくなったり、人の不幸に何も感じなくなったりです。

 

すずの冴えない心を終わらせたのは、北条家の人々。

自分が右手を失ったことで居場所はなくなったと思っていました。

 

でも実はあったんです。

もう居場所がないと思っていたのは自分の思い込み。夫の周作始め、義理の母も、一番の難敵だった義理の姉も内心ではすずのことを必要としていました。

 

ここからすずは急成長を遂げるのですが、原因は なくした右手ではなく、今あるものを見るようになったから。また北条家に自分の居場所を感じたからです。

 

自分の何を見るか、なんです

このすずの話は心が冴えなくなると世界も冴えなく見える自分のどこを見るかで心の有り様は変わるということです。

ここから私が特別支援学校で先生をやっていた話をしますが、学校の先生は子どもの出来ない部分を見過ぎです。

誰だってそうです。自分の不得意なところ、出来ない部分を見ていたら世界は冴えなく思えてきます。

 

でも自分の出来る部分、得意なこと、好きなことを見たら世界は変わるんですよ。

 

自分の居場所を確認させること、自分の出来る部分や得意なことに目を向けさせること。

これが障害ある子の人生にとっては必要なんです。

でもそれをやらない。その証拠に懇談や個別の指導計画では健常の子と比較しての「これが出来ない」「もっと頑張りましょう」「みんなと同じようにしましょう」」が羅列しています。

 

世界は変わらないんです。自分自身の身体や能力も大きく変わりません。

でも心の有り様は変える事が出来ます。

 

そして「自分の何を見るのか」が分かれ道です。

出来る部分を見るのか、出来ない部分を見るのか。得意な部分を見るのか、不得意な部分を見るのか。

 

その違いで人生は大きく変わります。

 

それは今回のすずの話にある通りです。

障害がある以上、出来ることや能力には限界が生じます。

すずで言えば右手はもうないんです。ない以上はどれだけ頑張っても両手だったときとは出来ることは限られます。

 

ただすずでも誰でも。心の有り様は変えることが出来ます。それは周りの環境次第です。

すずのように見えなくなっているのなら周りが見せればいい。

障害ある子が自信を失っているなら、その子の得意なことや出来ることを見せればいい。

 

でも学校はそれをやらない。

 

それをやらないから障害ある子のなかには「冴えない世界」しか見えない子がいます。

冴えない世界しか見えてないなら、頑張る気力は湧きません。前向きな行動は出来ません。

障害ある子で最も大切なのは「その子は自分の何を見ているか」です。

 

形を変えて戻ってくる

前回も書いた気がしますが、この映画というか原作本上中下を何度も読み返すと分かることがあります。

それは失ったものは形を変えて戻ってきている、ということ。

ネタバレで書きますが、すずが小さい頃に親切にした座敷童子も、戦争から帰ってこない兄も、失った右手に代わるものも、そのままの形ではですが手元に戻ってきています。

 

例えば、すずは右手を失ったことで、実は北条家の人間から自分は必要とされていたことを知ります。

普通、「あなたはここに居て欲しい」とか「私はあなたのことをこう思っている」と日常ではハッキリ言われないものです。

右手を失いましたが、みんなの本心を知ることが出来ました。その後のすずの変化は前向きな強い気持ちが生まれてきています。

 

不仲だった姉とはここから仲良くなってもいます。最後は心温まるエピソードもあるくらい。

また最後の最後で「右手を失ったからこそ得られたもの」がハッキリと表現されます。

 

そんなことを考えていくとやっぱり「何を見るか」なんですよ。

失ったものを見るのか、今あるものを見るのか。

自分の何を見るかで、世界は違った姿になります。

 

失ったものを見ると冴えない世界に。今あるものを見ると希望ある世界が見えて来ます。

 

未見の人は休日はぜひ映画館へ!

この映画、娯楽としても楽しめるものです。

まだロードショー中なので映画館でも観ることが出来ます。

余暇の一つとして『この世界の片隅に』を観てみてください。

 

感動してもらえたなら。前向きな気持ちになってもらえたなら。

原作の単行本上中下巻買った私の出費も報われるというものです(笑)