見えない心のなか
お子さんが学校で喧嘩した、先生から指導された。家に報告が入った。
ご家庭での対応は、どのようにされていますでしょうか。
子どもは「自分をみてほしい」と願っています。
見てほしいのは内面です。何を思って、何を感じているかを見てほしいと願っています。
子どもの話を聞かずに「あなたが悪い。これから改めなさい」と言うと「自分のことを分かってくれない」と悲しむかもしれません。
「なんでそんなことしたの?」と質問してみてください。
道理に合わない返事が返ってくることもあります。
注意したい気持ちになるかと思います。それでもグッと抑えてください。
「そのときどんな気持ちだった?」
「あなたはこれからどうするの?」
そんな想いを聞いてあげてください。返事の内容を気にする必要はありません。
反省のない言葉が出てきたら「あなたはそれで正しいと思っているの?」と質問してみてください。
「うん」と返事が来たら、それで話を終わらせて大丈夫です。
その子なりの正義
普段からお子さんは誰かを思いやる行動や言動がありますでしょうか。
先生から批判されたとしても、誰かに対して思いやりの行動がみられるなら大丈夫です。
「その子なりの正義でいいの??」と疑問に思われるかもしれません。
「正義感を一緒にさせなくては」という発想は失礼ながら違います。
一つの事件に対し「良い」「悪い」「どちらでもない」と意見が分かれるように、正義とは各個人で違うのが本来です。
「みんなが一つの正義を共有すること自体が不自然だ」と考えるといいです。
人を思いやることがルールの土台になっています。
「ルールを守れるけど思いやりのない人」
「ルールを守らないけど思いやりのある人」
世の中には両方のタイプがいますが、支持されるのは思いやりのある人です。
想いをみてほしい
子どもの目線からみれば無条件でルールに従っている姿は本来の自分ではありません。
我慢している自分、気持ちを抑え込んでいる自分は「これは僕(私)じゃない」と感じているのです。
自分の価値観、正しいと思うこと、誰かを思いやったこと。
そんな自発的な想いを「これが僕(私)なんだ」と感じています。
子どもを見るというのは想いを見るということです。
先生に批判される正義感や独りよがりな正義感を持つことはあります。
色んな人とぶつかるでしょう。それでいいんです。
ぶつかって修正してやがては「これだ」という答えにたどり着きます。
その答えは信念と呼べるもの。
生まれてきた理由と呼んでもいいものです。
みんな一人になりたくない
心配になる方へ向けて説明しますと、みんな一人にはなりたくないんです。
ルールや道徳に意味はあって、一人になりたくないなら結局はルールや道徳の枠内に入らねばなりません。
その子なりの正義感であっても、ぶつかりながら最終的には枠内に入る正義感になっていきます。
「養成ギブスのようにルールや道徳の枠内に入れるのでなく、ぶつかりながら入る方がいい」ということです。
ぶつかりながら枠内に入った子は、将来理不尽なルールには従わず、自分のため、誰かのためにルールを応用できる人間になっていきます。
「ルールを守りましょう」
「みんなと同じ価値観をもちましょう」
そんな指導が学校で多いものです。
自分を見失いそうになる子が多いと危惧しています。
お子さんの想いに目を向けてもらえますか。
信頼が深まり、親子共に良い結果を迎えられます。