「何かをしてあげたい」って思うじゃないですか。

私は今でもやってますが自分の気に入った映画や音楽を他人に勧めます。

「悪かったなー」と思うのは、昔、相手の趣向も気にせず「これ面白いから」とオススメしていたことです。

 

「今は相手の趣向を探りながら勧めている」と思いたいところですが、相手はどう思っていることやら。

 

肢体不自由のお子さんに対して、療育や学校で教わっている時間が多くないですか。

専門家である先生は「療育しましょうね」という立場です。

「療育以外のことも大事ですよ」と指摘する人がいないかと思いますのでお話します。

 

自分の人生をオススメしてはいけない

みんな自分を中心にして物事を考えます。

デリケートな話になりますが、歩ける人は「歩ける方がいい」と考えます。障害のある子も「歩けた方がいい」と思います。

 

ただその願いは温度差があります。

みんな自分を中心にして考えるため、歩ける人の方が「それが当然だ」と思いやすいのです。

 

この温度差で困っている子がいると思っています。

「親は自分の人生を子どもにオススメしない方がいい」というのは障害のあるなしに関わず、共通です。

みんな、その子なりの生き方があって。

障害を理由に先生などは「入り込んではいけない領域に入り込んでいるんじゃないか」と感じています。

 

「あなたはこうだからこう生きなさい」と知らぬ間に規定してしまっている。

その領域に侵入してしまうと子どもは無気力や主体性の欠如などが起こる。私はそう思っています。

 

見極めるポイントの一つは「子どもが泣きわめいてないか」です。

注射するときのように、泣きわめいてでもやらねばならないときはあります。

 

ただ「出来ないことは補助具などで代用する」という選択肢もあるんです。

「自分の持つ可能性を限界まで引き出さなくていい。代用で構わない」

そんな消極的な選択が子どもたちに用意されてないな、と感じています。

 

 

子どもはこんなことを想っている

願うことは大体はみんな同じです。

「生まれてきて良かったな」と感じたいんです。好きなものを見つけ、居場所がほしいんです。

 

何が好きかも、居場所を作るのも本人です。

先生が教えられないことは沢山あって、肝心な部分は子どもにやってもらうしかないんです。

 

「僕の(私の)好きなもの探しを手伝ってほしい」

「明日も良い日であってほしい」

 

子どもの頃に願うものは、大きくこの二つです。

一例を挙げれば、好きな遊びを一緒に楽しんで、色んな場所へ出かける。これで好きなモノが見つかります。

「今日も楽しかった」と今を充実させると「明日は良い日だ」と希望を抱けます。

 

心は補助できない

身体能力の補助手段はあるが、心の補助手段はない。

肢体不自由の子どもらの環境に置き去りにされやすいのが心の成長面です。

 

強制は少なく、一緒に遊ぶ、好きなことを探す。明日も良いだと思える。

そんな日々を繰り返すことで得られるのは、心の成長です。前に進む意欲です。

 

「この子は将来何して遊ぶんだろう?」と想像してみてください。

そのイメージが明確に湧けば湧くほど、お子さんは未来に希望を抱けています。