人が出来ることには限りがある。
つい先日ですが、小さい池に鯉がひっくり返っていました。
まだ生きていて口をパクつかせています。大きさは50センチほど。立派な鯉です。
水面からザリガニや小魚が見えるほどの浅い池で鯉が住むには適当ではありません。
ひっくり返った鯉はお腹が水面から出ています。
自ら体勢を戻してはひっくりかえる。また戻してはひっくりかえるをしていました。
池には用水路ほどの小川が流れていました。
どうにもそこから迷い込んだようです。
「気の毒に」と私はそのまま素通りしようと思いました。
小川からバッシャン!と音がしました。
仲間・・でもないでしょうが、鯉が数匹泳いでいました。
「うーむ、仲間の帰りを待っているんだろうか」と思えてきたので、救出大作戦です。
無事鯉は小川に戻れました。
しかし。
鯉はひっくり返ったまま。
「おい!ここで元に戻らないと意味ないだろ!」と思いましたが、そのまま。
川の流れに逆らえず、流されていきました。仲間の鯉たちは変わらず泳ぎ続けています。
「ごめん。余計なことをしてしまいました」と川下へ手を合わせて謝罪しました。
人間はつい万能のような気がしてしまいます。
池が浅く、川が流れている。戻したら鯉のためになるんじゃないか。
そうやって川へ戻しても鯉本人が泳いでくれなければ意味がありません。
人間関係には相互自立の原則があります。
お互いがお互いに独立して幸せを感じて生きていかないと最後は破綻します。
相互自立の反対が依存ですね。依存関係が成立しないのは明らかです。
友人など対等な関係では相互自立は働きやすいものです。
恋人関係はちょっと危うくて、親子関係になると要注意。
相手より立場が上だったり、出来ることや知識が多いと助けすぎてしまう。
早い話が助ける側は善意でも受け取る側にとっては迷惑ということ。
親子関係や先生と生徒など上下関係があると相互自立の破綻が往々にしてみられます。
手を出しすぎるんですね。
「私があなたを幸せにしてあげる」
これ、実はかなり危険です。気持ちは素晴らしいのですが諸刃の剣。
「私を幸せにして」
「私があなたを助けてあげる」
もちろん時と場合にもよりますよ。
相手が寝込んでいるときに「自分の力でがんばれよ」ではエグいです。
人は自分で生きる意志を持たねばならないんです。
生きる意志はどうやったら教えられるのか。
そんな方法はありません。
意志を奪う方法はいくらでもあります。
上意下達を徹底し、意義を感じないことをひたすらやらせればいい。
近代ではある刑務所で実験が行われたそうです。
態度の悪い囚人に一日中穴を掘らせました。ある程度掘ったらそれを埋めさせます。
翌日同じ場所をまた掘らせて、また埋めます。
これを数日繰り返すうちに囚人は精神の異常がみられたそうです。
囚人からすれば「これになんの意味があるんだ」と思ったことでしょう。
悪い意味ではなく私たちは無知です。
この世の真理も仕組みも何にも分かっていないでしょう。
「私は大人だから、子どもより優秀」
「大人の言う通りにやれば大丈夫」
これはもう現代の病理と言えるほどです。
相互自立の考え方では、互いが自分の人生を生きます。
親子、子育て、教育でいえば、子どもに教えながらも同時並行で自分磨きをします。
相手だけ成長させようとか思わないんです。
それは言ってしまえば傲慢です。自分も成長し、相手も成長する。
「最適な教え方をしたら相手は理解できるんだ」
そんな勘違いがはびこっています。学校や塾はその典型です。
無理です。
頑張ってない大人からの言葉は心に響きません。
学校は「言う通りに出来ない子はダメな将来が待っている」と指導してくるでしょう。
でたらめです。
不良が卒業後に安定することは普通にあります。
優等生が進路先で崩れていくこともあります。
教育現場は教え子達がどんな生活をしているのか。
自分たちがやってきたことの結果はどうなったのかを気にしません。
これは学ぶ側からすればとんでもない話。
裏付けなく、結果に責任持たず「こうしなさい」と教えてくるのです。
大人が変われば子どもも変わる
子どもを変える方法ばかり考えているのが、今の教育の隠れた大問題です。
変えられるのは自分のみ。
話し方を変える、教材の工夫、書き方の工夫。
そこじゃなくもっと己自身の生き方・思考の部分。
「目の前にある現象は自分が作り出したものだ」という責任感です。
・・とはいえ、これは学校は仕事なので不可能だと思います。
大事なのは親御さんはこれを真似しないこと。
子どもを変えようとしたら絶対に失敗します。
最終的に意志を奪うことになるでしょう。待つのはちゃぶ台返しです。
子どもは親を幸せにしてくれません。
(厳密には)親は子を幸せには出来ません。
これは悪い事ばっかりじゃないんです。
親は親で自分の人生を生きたらいいし、子どもは子どもで生きたらいいんです。
奉仕せず、嫌なものは嫌。めんどくさいときはめんどくさいでいいんです。
もちろん相手がピンチのときは助けてあげてください、ですが基本は相手に任せていいんです。
教える側が成長しないと、子どもは大して変わりません。
裏返せば、特に意識しなくてもあなたと同じくらいに子どもはなってくれます。
あなたが子どもの頃は、似たような事をして困らせていたはずですよ。
気負わず、親も子も、自分の夢と向き合ってください。
夢といっても大層なことではありません。
「自分にウソつかない(なるべく)」
「夢中になれるものを探す、没頭する」
そんなものでOK。
悲しいかな、夢がなくなれば、相手の夢も尊重出来ないのが人の性です。
サラリーマンでも主婦でも、学生も、先生も、社長もアルバイトもみんな同じです。
「意志をなくして奉公しなさい。それがあるべき姿だ」
そんな教えにはドロップキックです。
罠かのように、色んな理屈で丸め込もうとします。
「あなたは世間知らずだ」「人生は厳しいものだから」「私はこれで成功した」
「みんなやっているでしょ」「そんなの当たり前じゃないの」
水平チョップでOKです。
私たちは無知です。未来のことなんて分かりません。
出来ることは相手の意志を奪わないこと。これからどんな未来がやってきても実際やるのは彼らです。
生きる意志だけは奪ってはなりません。
「奪っちゃだめだ!」と思うのなら、自分で自分の夢を探しましょう。
その姿に子どもは必ず学んでいます。
意志を奪われなかった子どもはいつか必ず感謝してくれます。
幼い頃は有り難さが分からないだけ。
何が有り難く、何が余計なお世話なのか。それは大人になってから分かります。
相互自立を意識してください。
子どもに成長してほしいなら、まずは自分から。
といっても、スパルタな意味は全くありません。
人生をどんなイメージで生きていますか。
仕事は我慢してナンボなのでしょうか。
自分の思うことはくだらないものとは思っていませんか。
意外と自分は奥深く面白いものです。
そう思わさせない埋め込まれた仕組みがあるだけ。
堀江貴文さんは「教育は洗脳である」と衝撃的なことを言っていますが、まぁまぁ・・ね。
他者に依存してなくても、子どもが勝手に人生を生きだしても、親は満足出来るものなんです。