学校越えて日本中で頑張ると我慢がすり替わっています。
頑張るの中には夢が含まれています。「夢に向かって頑張る」です。
夢のない耐えることは我慢です。
学校で使われている「頑張ろう」は「我慢しよう」です。
同じ行動をすること、言う通りにすること、課題を乗り越えることが夢とは思えないからです。
一つ想像してみてください。
熱湯に入って真っ赤な顔をしている子どもがいるとします。「我慢してるな」と思いませんか。
今度はあなたが先生とします。「子どもを45分お湯に入れるのが仕事」だとします。
熱湯に入る真っ赤な子に「頑張れ」という言葉かけが出てくると想像できませんか。
立場ゆえに子どもに我慢させていることを「頑張れ」と表現している。
「頑張れ」と言われる側の気持ちを想像していただけたら有難いです。
私は以前、学校の先生でしたが「頑張れと言われることがトラウマ」という子は少なからずいます。
我慢が感じる心を奪う
学校へ行くのが苦痛な子に「頑張って学校へ行こう」は負担になります。
「我慢して学校へ行こう、が心情なんだな」と認識した方が子どもは救われます。
先生は「我慢することも成長だ」と主張しますが、我慢とは感覚の退化です。
我慢を続けようと思うなら感じなくなればいい。
熱湯に入り続けるには熱いと感じなければいい。
辛い状態に耐え続けるには「嫌だ」と感じなければいい。
感じる心を失くしたとき、全ての教育は形だけになります。
「火は熱いんだ」と分かるのは「熱い!」と感じるからです。
熱を感じない人間がもしいれば「火は熱いんだ」とは分かりません。
「生きる力」とされる優しさ、思いやり、夢や目標は感じて理解するものです。
何も感じない子に「生きる力」は理解できない。
教育で奪ってはならないものが感じる心です。
幼い頃のすぐ泣く、ぐずる、好奇心で行動することは学びの土台です。
学校への行き渋りは「嫌だ」と感じている証拠です。
頑張れと我慢のすり替えが子どもたちから感じる心を奪います。
先生がすり替えを分かるのは難しいでしょう。
お家では、我慢を減らしてもらえませんか。
・我慢は成長ではない
・頑張れと我慢のすり替えが起きている
この2つを意識してみてください。
子どもたちの心の内がどんなものか、正確に分かるはずです。
例をあげましょう。
野球が大好きな子が学校で大人しく座っています。これは我慢です。
野球が大好きな子がジョギングや筋トレをしています。これが頑張るです。
「辛いことしかないけど登校する」は我慢です。
「友達と話すのが楽しみで登校する」になれば頑張るです。
先に夢があるかないか、の違いです。
我慢を減らせば、感じる心は保たれます。
感じる心があれば、夢はなくなりません。「頑張れ」の言葉は励みになります。