ニュアンスが大事。

お子さんに注意した。言うことを聞いてくれない。

言い方を工夫しても変わらない場合あるでしょう。

 

子育て本は玉石混合であって、いい加減な本もあります。

「否定ではなく、肯定的な言い方をしましょう」

その通りにやって、相手が変わらなければイラっときます。

 

私も偉そうなことは言えなくて、マニュアル本通りにやっていた時期があります。

「こう言えばこうなる」と思っていたんですね。

 

ところがこれがうまくいきません。

相手にイライラし、本読んだ時間が無駄になったことにもイライラ。

原因が分からないことにもイライラしたりするわけです。

 

あれから失敗を繰り返して分かってきました。

大事なのはニュアンスです。

 

同じ言葉でも、ニュアンスで全て意味が変わります。

 

本や偉い教授が「こうやったらうまくいくんですよー」と言います。

ウソでしょう、あれは。

 

大事なのはどんなニュアンスで言うかがほとんど。

自分はどんな気持ちでその言葉を言ったのか、です。

 

「ありがとう」でも嫌みに表現することは可能です。

イヤーな表情で、声を低くして「ありがとう」と言えば立派な悪口になります。

慇懃無礼ですね。

 

「バカ」でも明るく笑顔で言えば「大好きだよ」に変わったりするわけです。

なんか書いてて照れますが

 

「どんな言葉を言うか」は大した問題ではありません。

どんなニュアンス、つまりどんな気持ちでそれを言うかです。

 

ある不良少年がいました。

彼は中学3年生。校内暴力や万引きは何度やったか分からない。

差別的な発言を繰り返し、先生の指示にも当然従いません。

絵に描いたような不良だったわけですが、ある日、彼は大暴れしました。

 

校内の壁やドアを蹴りまくり、ガラスを割り、人を殴ろうとします。

彼を止めようと周りの先生はしていましたが、聞く耳も持たず。

 

「プッツンした」という表現が正しいと思います。

暴れる彼を誰も止められません。

 

彼は私の元へ来ました。

私は止めようと「それ以上やると、取り返しのつかないことになるよ」という言葉を言いました。

 

彼はなんと言ったか。

「もうどうでもええねん!」と大声を張り上げていました。

 

自暴自棄になっていると思いました。

そもそもが彼は父親からの愛情を受けていません。友達ともうまくいっていません。

悪さを重ねると少年院送りとされています。

 

彼は学校のルールを守れません。

守ったら友人からなめられると信じ込んでいるようです。

 

彼の様子から少年院行きも辞さない気持ちなのだと思いました。

 

「そういうことじゃないだろ?」と言葉が出てきました。

彼は私の目をみました。

下を向いて、踵を返して校外へ出て行きました。

 

「そういうことじゃないだろ?」は誰でも言えます。

言葉や理屈じゃないのです。

 

魔法になるとしたら、言う側の気持ちなんです。

どんなニュアンスを込めて言葉を発しているのか。。

 

先日も障害者スポーツのボッチャの講習会をしてきました。

知的障害のある男性とお母さんが参加していました。

 

男性は成人を超えています。

もう一人前の大人として扱うべきですが、お母さんはざっくばらんな性格。

「なんでそんなんできへんの!」

「ちゃんとなげーや!」

とお子さんを半人前扱いというか、人権的にもNGワード連発です。

 

当の本人は気にしてない様子でした。

周りの空気も明るいままです。

 

お母さんのニュアンスには嫌みがないんです。

これは私の勝手な想像ですが、お母さんはお子さんの自然体を受けとめていると思いました。

お子さんもそこが分かっているから、何を言われても平気なのだと思います。

 

頭で考えると「こう言えばいいんだ」と誰かの話を参考にしてしまいます。

「前向きな言葉をいいましょう」

本当にそうなのでしょうか。

 

私は先生してましたが、そんな言い方たくさん習いました。

みんな知っているはずでが何故結果は変わらないのか。

 

先生側の気持ちが、変わっていないからです。

発する言葉だけ変えて、生徒に対する気持ちが今までと同じ。

 

気持ちがこもっていれば、「アホ」でも「好き」に意味が変わるのが人の言葉です。

 

先ほどの不良少年の話ですが、彼は少年院へ行くことを危惧していました。

私が彼を止めるときは「それ以上やったら危ないよ」と言う事が多かったです。

 

無視されることはありました。

二人きりのときであれば「うん」と答えてくれることもありました。

 

私のニュアンスは「あなたが心配だから」という想いを込めていました。

 

私の言葉をそのまま応用した先生がいます。

美術の時間ですが、彼は席に座りません。ずっと立ち歩いていました。

先生は私と同じような言葉を言いました。彼は無視していました。

 

しつこいですが違いはニュアンスなんです。

その先生は叱責で言うんです。私は心配で言います。

 

同じ言葉でもニュアンスで変わります。

本に書いてあるのは言葉だけです。

 

人間には気持ちがあり、「やる、やらない」を決めているのは気持ちです。

 

言う側の気持ちのコントロールが大切です。

 

自分にウソをつくべきではありません。

嫌な人に愛想をふりまいてはいないですか。

 

「みんなと仲良くしましょう」

「相手の良いとこ探ししましょう」

そんな道徳だって、時には過ちになります。

 

私は相談業しています。

あるお母さんは「子どもに酷い言葉がけをしてしまう」とおっしゃっていました。

 

私はストレスを減らすことを勧めました。

お母さんはご自身の親が苦手でした。

仕事でパワハラに近い扱いを受けていました。

 

私はお母さんの話を聞きました。

親と会う回数を減らすようすすめました。

仕事であっても「譲れない一線をもってください」と刃向かうことを勧めました。

 

数日後にメールがあり「子どもに反抗もされても平静でいられました」と書いてありました。

 

人間の仕組みは気持ちや心や意識で出来上がっています。

小学校や中学校では絶対習わなかったでしょう。

 

そのツケが今、世の中全体に出回っています。

私は「教育と啓発のバランスだ」といい、教育だけでは人は変われないと言っています

 

客観性や理屈が絶対なのでしょうか。

私達が当然だと思っているものは当然ではありません。

 

テレビCMでは「この商品は良いものです」とメッセージを発します。

広告であることを私たちは知っています。信じ切ることはありません。

 

では教育はどうなのでしょうか。

そもそも教育は公明正大なものなのでしょうか。

 

このままでいくと世の中はどんどん客観的に、みんなが同じ考え、行動になっていくでしょう。

 

啓発はこの流れに逆らいます。

「(常識はこうだけど)あなたはどう思うの?」という気持ちを確認します。

 

人間の原点はずっと感情であり、気持ちです。

私達は進化しているようで、大昔と大して変わっていません。

 

うまくいかないことが続くなら、あなた自身の気持ちに目を向けてみてください。

 

嫌な人間関係に耐えてはいないか。

言いたいことをちゃんと言えているか。

 

「ぶっちゃけた話」が大事です。

本音には道徳も、客観性もありません。

 

ただあなたがどう感じているか、だけ。

でもそれが解決の糸口になるんです。