夢を描くには
映画「今を生きる」という映画を紹介します。
1990年公開と古い映画です。
この映画は学校教育のみえざる問題点を洗い出している良作です。
学校とは夢をなくす場所です。
人にはみんな誰にでも生まれ持ったセンス(感性)があります。
映画中でも詩の朗読を通して、それぞれがセンスを表現していました。
キーティング先生(ロビンウィリアムズ)だけが生徒の感性を信じ育むわけですが、この構造は日本の学校至るところで起きています。
この映画、未見であればぜひ見ていただきたい。
子育て中の方のみならず、今なんだか違和感を抱えている人、夢を抱きた人はぜひ。
学校は「伝統、名誉、規律、美徳」を重んじる
物語は1959年のアメリカ。
バーモント州にある全寮制の学校ウェルトン・アカデミーに就任した先生と生徒たちの物語です。
映画冒頭は入学式から始まります。
新入生が学校の理念を掲げた学校旗を掲げて入場してきます↓
TRADITION(伝統)
他にもHONOR(名誉)DISCIPLINE(規律)EXCELLENCE(美徳)と書かれた旗をもって入場してますね。
これなんですよ。
伝統も名誉も、規律も美徳も。
共通点があります。
それは何か。
要は他律なんです。
自分以外の価値観を大事にすることで、他律は守れます。
失われるのは自律であり、個人の抱く夢であり、センスであり、感性。
日本の学校でも同じ構図があるんですよ。
入学式では校長の話があります。
『伝統、名誉、規律、美徳。この四つがウェルトン・アカデミーの柱なんだ』
『有名大学進学率が高いこの学校は「アメリカ合衆国で最も優秀な学校だ』
という話をします。
これもまた客観性であり他律の話です。
対抗するのは主観であり自律。
「他人に認められることが自分の価値なんだ」
そう思わせたいんです。
これ、真逆です。
自分の価値を追求することが世の中で成功する秘訣じゃないですか。
生徒はこの学校を「ヘルトン(地獄学院)」と呼びます。
それはそうです。自分の意志は尊重されず、感性は失われていく。
子どもにとっては地獄であり、それを当然視するのも地獄の始まりです。
先生は騒いでいる生徒に「静かにしろ。育ち盛りの悪者どもめ」と怒鳴ります。
「宿題を怠る者は期末の成績から減点する」と進学や卒業を権威にして、威圧してきます。
頭ばっかり動かして、心を動かしていない。
センスが鈍ってくるのです。
そんな中、風変わりなキーティング先生(ロビン・ウィリアムズ)が就任するわけです。
今を生きろ
キーティングは国語の先生です。
型破りで、生徒の好奇心を刺激します。
頭ばっかりに詰め込まないで、心に響かせようとします。
最初の授業で教科書を閉じさせたでしょう。
歩いて、話して、動く授業をします。
これがセンスを磨く授業です。
学びとは体感であり、感性なんですね。
最初の授業は「卒業生の写真を観ること」でした。
キーティングは生徒を卒業生の写真やトロフィーが飾られている場所へ連れて行きます。
一つの詩を紹介します。
「バラは摘めるときに摘め。時間は飛ぶように去る」
この詩の意味を「青春を謳歌せよ」とキーティングは訳します。
この台詞、教師としては致命的です。
生徒が今を生きるようになったら、教師の仕事増えます。
自らの首を絞めるようなものですが、先生はこう言えるのです。
なぜか。
先生自身も詩人だからです。ずっと感じて生きていきたい。そんな生徒を育てたい。
夢がある先生は生徒の夢を尊重できます。この先生はホンモノです。
「写真に写る彼らは君たちとそっくりだろう?だが彼らは今、老人か、もうこの世にいない」
「我々は死ぬ運命なのだ。だから今を生きろ。自分の人生を素晴らしいものにするんだ」
他律じゃなく、自律を促しています。
これには裏がありまして、自律の先に他律があります。
キーティング先生は子ども堕落させる教師に評価されますが、実際は逆の構造です。
ある授業では机の上に立つよう指示しました。
「物事には違う視点があることを忘れるな」ということを伝えるためです。
「くだらないと思うことでも、違う視点に立って見てみるんだ。気づかなかった価値に気づけるかもしれない」
詩を分析する教科書を「そんなものは破り捨てろ」と指示します。
「詩は何のためにあるのか。君らが単位をとるために詩はあるのか?」
「違う」
「ただ周りに溶け込むこと、刺激的な欲求、そんなものに人生があるのか?」
「我々が詩を読み、創るのは人間には情熱があるからだ」
「情熱やロマンスや愛こそが、我々が生きる理由ではないのか」
「自分の中にあるロマンや恋や愛を発見したとき、詩が書けるんだ。それを見つけるんだ」
この言葉は決して堕落させるものではないのです。
人には自分のセンスを活かして世の中に貢献したいという本能があります。
キーティング先生は詩が好きであり、教育が好きなのです。
そうやって世の中に貢献したく仕事をしています。
安定した収入や世間体ではなく、自分にある感性、センスから。
そのさきに本当に良い仕事が生まれ、日々の充足があります。
断言出来ますが、学校の言う充足した日々や人生の成功は人を惑わすものです。
本当に成功は自分のセンスの先にあるもの。
他律はセンスを奪い去るものであり、喜ぶのは上にいる立場の者だけ。
個人を思えば、キーティング先生の教え方がベストです。
とはいえ、キーティング先生も、日本の学校にきたら非常に浮いた存在になるでしょう。
悲しい構造です。
自己より規律を先に置くトッド
キーティングにより劇的に変わったのは転校生のトッド・アンダーソン。
トッドは自分が出せません。規律や道徳そして失敗を気にして行動出来ないでいます。
まさに他律の塊となっています。他律にセンスを奪われてしまったのがトッドです。
キーティング先生は見事に感性を引き出します。
授業で詩を自作し発表する宿題が出ました。
トッドは自室で詩を書きます。
それなりに書いていたのですが、授業では「僕は詩を作りませんでした」と言います。
詩とは自分の感性です。
彼が詩を書けないのは、他者ばかり意識しているから。
日本の学校でも「この答え分かる人?」と聞かれたら目を背けますよね。
自分だけを見ている子どもは「はーい!」と言えますが、他律を意識し出すと言えません。
トッドには優秀な兄がいます。有名人の兄に対しトッドは劣等感を抱いているようです。
親の関心もトッドには対しては薄いものでした。
優秀過ぎる兄と無関心な両親。この二つが原因でトッドは自分に価値を見いだせないでいます。
キーティングはトッドを前に立たせ、大きな声を出させました。
トッドから出るのはか細い声です。
次にキーティングは教室に飾られている偉人の写真を指さします。そして「君はあの男に何を思うか」と問います。
トッドは答えますが、まだ周りを気にしています。
キーティングは目を閉じさせます。クラスメイトの冷やかしの声は「聞かなくていい」と諭します。
目を閉じたトッドに対しキーティングは1対1で問いかけ続けます。
次第にトッドの口から写真の男に対し、気味の悪いグロテスクな表現が出てきます。
「気持ちの悪い男が涎をたらしてこちらを見つめている」
不気味ながらもトッドだけの世界観です。
こんな表現誰にも出来ません。
独創性のある表現に他のクラスメイトから驚嘆の声が上がります。
トッドに笑みが浮かびます。
キーティングは「その感覚を忘れるな」とアドバイスしました。
これは自分の心に向き合うこと、感じたこと、センス。
夢はセンスの先にあります。先生は大事なことを教えてくれました。
自分の感性に気づいたトッド
トッドは感性を取り戻します。
親友のニールがいます。
ある日ニールは二階の渡り廊下で落ち込んでいるトッドを発見します。
ニールは理由を聞きますが「今日は誕生日なんだ」との返事でした。
誕生日なのにトッドはなぜ落ち込んでいるのか。
その理由は両親からの誕生日プレゼントにありました。
誕生日プレゼントはデスクセットだったのですが、それは去年もらったのと全く同じものだったのです。
トッドは「今年も同じ誕生日プレゼントだった」「親は何も考えてない」「最初にもらったときも気に入らなかったんだ」と自分の感情を話します。
その言葉にニールは去年と同じ誕生日プレゼントを”別の角度”から見るように話していきます。
「僕がデスクセットを買うならこれと同じのを買うな」
「野球のバットやバスケットボールもらっても嬉しくないだろ」
ニールの気持ちにトッドに笑顔が戻ってきます。
ニールは閃いたように「このデスクセットよく飛ぶ形をしてるな」と言い出します。
「トッド、これは世界初の空飛ぶデスクセットだ」と暗に諭します。
トッドは笑いながらデスクセットを2階から投げ飛ばしました。
これです。
これが感じていること、思うこと。
親からもらったプレゼントであろうが自分が気にいらないなら捨てていい
これを読んでどう思いますか。
学校では許されないことでしょう。
でもこれでいいんです。個人の感性、思うことを否定することは、誰のためにもなりません。
毎年同じプレゼントを喜ぶ方が、大事にする方がどうかしています。
ニールを悲劇に追い込んだのは?
この映画の主人公はキーティング先生ですが、生徒側の主人公はニールです↓
ニールもキーティングの影響を受けて、自分の感性を意識するようになった一人です。
やがて彼は「自分のやりたいことが見つかった」と演劇の世界に興味を持ちます。
ニールは演劇のオーディションに応募し合格します。ただニールの父親は猛反対をします。
ニールの父親は感性よりも地位や名声を求めるタイプです。世間体を気にします。
ニールが自分に口答えするのも、恥のように思えるのです。そして「みんなの前で私に口答えするなよ」といいます。
父親はニールに医者になることを求めています。ニールの演劇への情熱を完全に否定します。
母親はニールに同情的ですが父親の方針には逆らえないようです。
この父親はセンス、感性、夢を無くした典型例です。
自分の人生を生きていない。他律で生きているのが父親。
父親の態度がニールに悲劇を招きます。
原因はニールの感性を封じ込めたからです。
ただ父親は「なぜこうなったか」が理解出来ません。
感性とはその人そのものなんです。
子どもを大事にすることは、センスや心に思うことを尊重すること。
決して高い学歴や高い客観性を保つことではないんですよ。
「これはあなたのためだから」
そんな文句でもって行われる教育はほぼ押しつけになります。
これは非常に役立つことなので覚えておいてください。
感性を失ったものは相手の感性を奪います。奪うことに気づけないのです。
キーティング先生のように感性ある人は相手の感性を尊重出来ます。
相手の感性に気づけるからです。
学校のみえざる問題点とは感性のない先生が感性ない子どもを育ててしまうこと。
全くの正反対で、感性を育てないこと個性やセンスは出てこない。
みんな画一的で「夢がない」となるのは、必然なんです。
「死せる詩人の会」の本当の意味
この映画タイトル「いまを生きる」は邦題です。アメリカでのタイトルは「死せる詩人の会」と言います。
「いまを生きろ」という言葉は映画中に何度も出てきます。対して「死せる詩人の会」は不気味な印象すらも受けます。
「死せる詩人の会」とは何なのか。
キーティングはトッドやニールが通うウェルトン・アカデミーの卒業生でもありました。
死せる詩人の会とはキーティングが学生だったころに作った学生たちが詩を朗読しあう会です。
ただこのメンバーは非公認で、夜な夜な学校外れの洞穴に集まって詩を朗読しあう会でした。
詩は古典の詩を読むこともあれば、自作の詩を読むこともあります。
キーティングは当時の死せる詩人の会を「ロマンチストの集まりだった。流れる蜜のように詩を朗読しあった」と評します。
ただなぜ会の集まりに「死せる」がついているのか。
「死せる詩人」とは高校生の自分たちを指しているのだ、と思います。
大人の世界では、個人の感性よりも組織の倫理を求められます。
感性でつくる詩などは”無意味なもの”です。
キーティングは大人になるつれて、自分たちが詩人でなくなっていくことを予感していたのではないでしょうか。
だから自分たちへの戒めであり、皮肉的にも学校非公認で集まる詩の朗読会を「死せる詩人の会」と名付けたように思います。
みんな本当は詩人なんだ
この映画は本当に傑作だと思います。
このサイトは夢を抱く方法を書いていますが、これほど分かりやすいものはない。
「夢がないのが普通だ」
私の知人にもそんなこと言う人いますが、これはとんでもない。
夢は誰でも抱けます。トッドが詩人になれたのがその好例。
大人になると詩を書けないのは、客観性を考えるからです。
どこかの誰か似た詩になっちゃうんですね。
日本の公教育も150年の歴史がありますが、そのデメリットは語られません。
そりゃやっている先生から「これがデメリットです」と言うわけはないのですが、とにかく受ける側に意識が必要。
夢とは感じること、思うこと、センスです。
なくすのは教育であり、他人。とくに感性をなくした他人です。
映画でいえばキーティング先生以外の全部は感性をなくしていました。
分かりやすく言えば学校とは建前の場所。
義務教育だけどサボりたいのが本音。
労働や納税は大事だけど遊びたいのが本音。
感性を磨くとは本音主義でもあります。
この映画ほど「君はどう生きるのか?」を表現したものはないでしょう。
超オススメの一作です。
トッドの変化とニールの悲劇。
これが人生の全てを表現しています。
誰でも夢は抱けるのです。
ただ感性をなくされるのも当然のように罠のように存在してしまっています。
誰でも詩人になれますよ。大人になった今でも。