映画「シン・ゴジラ」を観ました。

有名過ぎて説明する必要もないですがこの映画は東京に巨大生物ゴジラが突如襲来。

東京や政府が大混乱する様子や解決のために人々が一致団結する人間模様を描く映画です。

 

私は実際に観るまでは映像に目がいっていました。

日常生活の中に突如ゴジラが現われるパニックが描かれています。

※破壊シーンは多いですが、人間同士の暴力などの直接描写はないので家族で観ても大丈夫です。

 

この映画「ゴジラの危機から日本を守る」という目的遂行のために政府や学者、軍隊、など多くの立場の人間が知恵を絞り、解決へ進んでいくドラマがありました。

 

ゴジラによって今までの価値観がひっくり返る

ゴジラの襲来に対して、政府の対応は後手後手に回ります。未知の出来事に対して従来のやり方では通用しないのです。

 

シン・ゴジラのキャッチコピー自体が「現実(ニッポン)vs虚構(ゴジラ)」とあるように、あらゆるものに対比がされています。

今まで良いとされていたもの、慣習的なものが否定され、今まで無価値とされてきたものに価値が生まれています。

 

登場人物も同様です。

「純粋な善」「純粋な悪」という性格づけはされていません。

「この状況では良い人だけど、こっちの立場からすれば悪い人」といった描写がされています。

 

決断出来ない総理大臣

「東京湾に突如ゴジラが現われる」

予想も想定も出来ない事態に総理大臣はリーダーシップを発揮出来ません。総合的な判断は部下が行っています。

 

この総理は最初は決断出来ずに事態を悪化させていきます。

ただ人命を優先すべきなど同調できる部分もあります。また事態が把握されていくと的確に判断していくようになります。

自分の命よりも総理大臣としての使命を果たそうとする場面もあります。

 

リーダーシップや判断力に乏しく頼りない印象はありますが「無能」「悪人」ではないのです。

 

無愛想すぎる専門家

政府はゴジラの生態をしるため有識者会議を開きお抱えの生物学専門家を3名呼びます。

ただこの専門家たちが役に立ちません。

「前例のないことなので分からない」「実物を見ないと意見できない」と官僚のような意見です。

要は下手なことをいって責任を負いたくないのでしょう。逃げの姿勢が見えます。

 

ゴジラ生態への有意義な意見を出したのが、環境庁の野生生物課課長補佐という役職の尾頭ヒロミです。

彼女はテレビ映像の情報だけゴジラの生態に関する的確な観測を出します。

課長補佐というほぼ平の職員の方がずっと頼りになっています。

 

彼女はゴジラ対策チームの一員となりますが、終始無愛想で抑揚のない話し方です。感情を交えて話しません。

 

ただゴジラの放射性物資が無害化され、人々が助かることが分かると初めて笑顔を見せます。

決して冷たい人間なのではなく、内面には熱い想いを持っていることが想像出来ます。

 

組織のはみ出し者で結成された巨災対本部

前代未聞の危機にこれまでの常識や組織や権威は役に立ちません。

政府内で最も活躍したのが主人公の矢口蘭童率いる巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対本部)です。

ただこの巨災対本部は各部署での一癖ある者ばかりの集団です。

各自の異名がすさまじく「はぐれ者」「オタク」「問題児」「鼻つまみ者」「厄介者」「学会の異端児」と呼ばれているメンバーが集まっています。

 

ただ機動力のない政府と違い、この巨災対本部の行動は迅速で的確です。

今まで組織のはみ出し者だった人たちが、ゴジラ対策では最も有効な計画を立てていきます。

 

ラーメンの心配をする責任者

ネタバレになるので詳細避けますが、画像は緊急事態に対してとある部署責任者に就任した人物です。

 

「ゴジラ来襲」という未曾有の事態においてこの責任者になりたい人はいません。

この人物も仕方なしに就任した噂がたっており、清廉潔白ではない評価もあります。

 

初登場シーンでは部下の報告が長くて注文したラーメンがのびたことを嘆いていました。

ただこの人物も最後は日本を救う気骨を見せます。普段はいい加減でもやるときはやる人物です。

 

理想か現実か

シン・ゴジラの主人公は矢口蘭童といいます。

矢口は前例よりも現場の判断、実利よりも想いや理想を大事にする行動派です。頭も切れます。

 

この矢口と対照的な性格で、現実、実利を優先して行動する人物がいます。

赤坂秀樹です。彼も非常に頭の切れる人物です。

 

赤坂は危なっかしい矢口に助言するなど面倒見ある性格です。「赤坂さんしか頼れる人がいない」と部下からの人望もあります。

ただ、どさくさに紛れて上の役職についたり、責任逃れの手を打っておくなど抜け目のない部分もあります。

 

ゴジラ対策で二人は真っ向からぶつかります。

 

矢口は最も被害が少ない理想的な対策を、赤坂は短期的に失うものは大きくても、長期的には回収できる方策を出します。

ただ未知数が大きいゴジラに対して、どちらが正しいとは言えません。

 

矢口は理想主義で、赤坂は現実主義。

信じるモノや立場が違うだけで「日本を救い、良い方向に導きたい」という想いは同じなのです。

 

個人的にラストの赤坂のゴジラ襲来への見解は心に刺さりました。

「赤坂は矢口より大人だ、とも言えるのかな」と思いました。実は矢口の将来像は赤坂なのかもしれません。

 

ゴジラは脅威か、希望か

映画中で「ゴジラは人類の存在を脅かす驚異であり、人類に無限の可能性を示す福音でもある」と評していました。

 

理由ですがゴジラは水や空気があれば、他にエネルギー補給する必要がありません。

人間は水や空気だけでは生きていけないですし、自動車はガソリンが必要。テレビは電気が必要です。

 

戦争の多くの原因は資源の奪い合いです。

ゴジラを研究していけば、資源の奪い合いで起こる戦争がなくなるかもしれません。

ゴジラの存在は人類にとって脅威であり希望なのです。

 

ゴジラは被害者?

他にも今までのゴジラシリーズに共通しているテーマですが、ゴジラは加害者のように見えて被害者です。

 

ゴジラは最初は幼生の姿で現われます。その姿は可愛らしさもあるものです。

その姿に人間は攻撃を加えようとするのですが、私は「なんだか不憫だな」という気持ちになりました。

ゴジラは東京を破壊していますが、ただ歩いているだけです。無用の攻撃はゴジラからはしません。

 

とはいえ私も自宅に入ってくる虫類は退治してしまうので偉そうなこと言えません。

ただ、ゴジラは人間が捨てた廃棄物が引き起こしたものです。ゴジラは被害者でもあります。

 

破壊と再生

ゴジラにより東京の首都機能は失われ、政府も崩壊しました。

ただ登場人物の一人は「これで新しい日本が生まれるだろう」と見解します。

「この国はスクラップビルド(破壊と再建)で成長してきた。だから今度も立ち直れる」と言います。

 

「今、日本は行き詰まっているのではないか」と感じる人は多いのではないでしょうか。

どうしようもない閉塞感があるはずです。

 

私は以前は公立の学校の先生をしていました。前例主義や形にこだわる教育を目の当たりにしてきました。

ただ個人の力ではどうしようもありません。

学校を変えよう、良くしようという動きはあっても、反対の意見にかき消されます。

 

今までのやり方では通用しなくなってきました。

「一度壊さないとダメだ」という見識は私も同感です。

 

短期的にみればゴジラは悲劇ですが、長期的にみればゴジラは新しい日本の幕開けなのかもしれません。

 

全てはグレーである

シンゴジラの重要かつ謎の人物である牧教授がいます。彼が本作品中、一番の白黒ハッキリしない存在です。

牧教授はゴジラの黒幕のようでもあり、世界を救う英雄のようでもあります。見方により変わるのです。

 

またこの映画は単純なハッピーエンドでもありません。

映画の最後のカットは非常に興味深いですが、その意味は「全てはグレーである」という庵野秀明監督の演出のように感じました。

 

 

全てがグレーであるならば?

このシンゴジラでは善も悪もありません。それぞれが立場や想いによって行動しています。

「善か悪か」「白か黒か」ではなく全てがグレーなのです。

 

ゴジラ襲来によって今まで正しかったもの、常識だったものが通用しません。

反対にはぐれ者や異端者、いい加減だったはずの人物が日本を救います。

 

世の中のほとんどが曖昧であり、グレーなのです。それがゴジラ襲来によってむき出しにされるのです。

 

先ほども言いましたが、私は以前は先生をやっていました。

中学校や学習塾、障害のある子が通う特別支援学校でも経験があります。

 

学校は先生の意見や常識や「皆と同じ」が正しいとされています。ですがそれもグレーです。

 

先生が間違っていることもあります。

常識は場所や人によって変わります。

皆と同じようにしていれば安心はしますが、心が満たされるわけではありません。

 

学校は正しいわけではないのです。ただ多数派であり、主流であり、今までそうやってきた、という話です。

 

とはいえ「先生が悪い」「学校が間違っている」という「白か黒か」もまた違います。

 

先生にも悩みや苦しみ、立場や役割があります。

今の学校だからこそ救われる子もいるし、日本の治安や秩序の良さは学校教育のおかげです。

 

ただ場面によっては今の学校教育のやり方は毒にもなります。

 

全てがグレーで正しいものがないとすれば、どのように行動していけばいいのでしょうか。

その答えも映画中では、暗喩的な方法で示されています。

 

「私は好きにした。君らも好きにしろ」

映画では物語の重要人物である牧教授が「私は好きにした。君らも好きにしろ」というメッセージを残しています。

牧教授はグレーな人物の典型です。極悪のように見えて、善意の人にも思えていきます。

 

牧教授は事故により妻を亡くしています。ゴジラにも関わっています。

その過程の中で何が正しくて、何が間違っているのか分からなくなったはずです。

 

では牧教授はどう決断したのか。

それが「私は好きなことをした。君らも好きにしろ」ということなのでしょう。

 

この世に正しいものはない。なら自分の価値観に従って行動すればいい。

ということです。

 

自分の価値観を見いだすことが必要

大企業が倒産したり、先生や警察の不祥事が明るみになっています。

雇用や世界情勢、とある国の大統領のように、今まではNGだったはずのものがOKに、ひっくり返る事態になってきています。

「これが正しい」とされてきたものが無価値になってきています。

 

ではどうすればいいのか。それは破壊と再生でしょう。

一度身についた常識や慣習をリセットし、その中から自分の好きな者や価値観を見いだす事が必要です。

 

私は先生していても、同じことを思ったのです。

 

「先生が正しい」「常識はこうだ」「皆と同じ」という価値観で苦しむ人がいます。

それらの悩みを解決するのは今までの慣習を捨てて「でも自分はこうしたいんだ」という自分の原点に戻ることです。

 

「私は好きなことをした。君らも好きにしろ」

 

私はこの言葉を無茶苦茶な意見とは思いません。

実際にこれで前向きになっていく子どもや保護者を見てきたからです。

 

私はこのブログ夢へのenzinや、サロンを通して自分の好きなもの、自分が価値を感じるものを見つけてもらうお手伝いをしています。

映画や本を通しての解説もしていますのでよろしければ他の記事もご覧ください。