自分が詳しくないものを買いに行くときって不安でないですか?
例えば自動車やパソコンや服などを買いに行くときです。
例えば車を買うとき、知り合いに車に詳しい友人がいたら「どんなのがおススメ?」など相談するはずです。
私は知人にパソコンに詳しい者がいて買う際にはよく相談していました。
おかげで私自身もパソコンに詳しくなり、今では簡単なアドバイスなら出来ます。
服に詳しい友人に「一緒に買い物行こう」なんてのはよくある話ではないでしょうか。
私は大学時代に「やべぇ、俺超ダサい」ということに気付いて友人に習いました。
その分野に詳しい人がいると色々相談出来たり、買い物に同行してもらえば良い物が買えるものです。
言うまでもなく障害ある子の特別支援教育も同様ですよね。
詳しい人からの情報があれば良い方向へ進めるはず。
なんだか自画自賛している気持ちになりましたが、私は9年間特別支援学校におりましたので一通りのことを知っています。
また個人で障害者スポーツの団体運営もしています。
そこには社会人となった卒業生もいます。
支援学校卒業生がどんな生活をして、どんなことで悩んでいるのかを身近で感じているわけです。
いわば学校入学から卒業した後の生活までを知っている立場です。
そういった経験の中で「あ、ここは大事だな」「これはどうでもいい」などポイントがあるのです。
自分で言うのも何ですが「ぞれが自分の使命なんじゃないのか」くらいの気持ちで書いております。
なぜそう思うのかというと「これはどうでもいい」ということに気付かずに、また気付きながらも取り組んでいる子どもの姿を見ているのです。
間違いなく私は先生としては少数派。
ですが少数派だからこそ分かることがあるのです。
学校は”立派な人間”を目指すところ
先に結論を言いますとポイントは「立派な人間よりも幸せな人間になる方が大事」ということです。
この説明だけでは分かりにくいですよね。
まず立派な人間とは何かを定義します。
立派な人間とは誰かから褒められる人間です。
さわやかな挨拶をし、悪口を言わず、懸命に勉強して、世の中に貢献することを常に考えているような人。
誰がどう見ても立派です。非の打ちどころがない人間です。
反対に幸せな人は他人のことよりも、自分の幸せを追求します。
嫌な人とは距離を置き、愚痴をこぼして、時には勉強に手を抜いて、自分のやりたいことをやろうとします。
「立派な人間よりも幸せな人間になることの方が大事」というのはバランス感覚です。
自分の満足ばかり、つまり個人の幸福だけに偏るとしっぺ返しがきます。
例えば好きな人とだけ付き合って、何でも言いたい放題で、遊んでばかりの人を想像してみてください。
とても社会の中では生きていけないでしょう。
だから親や学校はしつけをし、教育をするわけです。
反対に立派な人間になることに傾けば自分の幸せは離れていきます。
ここで言う立派な人間とは世間の評価を最優先にして生きること。
自分がどうしたいか、どうありたいのかを考えずに世の中の求める枠組みにスッポリ入ってしまうことです。
私は学校の先生だったので学校を例に挙げますね。
学校の先生の指導は9割方は「立派な人間になること」を目指しています。
授業中喋ってはいけません。
廊下を走ってはいけません。
忘れ物をしてはいけません。
悪口を言ってはいけません。
さわやかな挨拶をしましょう。
将来に向けて努力しましょう。
などなど。これは全て立派な人間になるための行為です。
先生の言っていることを忠実に守っていけば「あなたは立派です!」と周囲から非の打ちどころのない評価を受けるでしょう。
ただ忠実に守れば守るほど幸せからは遠ざかっていきます。
幸せな人間を定義してみましょう。
自分のやりたい夢を追いかけている
親友がいて連絡をとりあっている
恋人がいて相思相愛である
大好きな趣味がありそれに没頭している
お金持ちで高級外車に乗り、毎年海外旅行に行っている
などがあげられるでしょうか。
これらは個人の楽しみです。人から褒められる立派な行為ではありません。
やっている方も世の中のために行っているのではないですよね。自分のためにやっていることです。
悪い表現になってますが、学校教育とは個人の「やってみたい」「こうありたい」という想いを抑えようとします。
代わりに「こうすべきだ」「こうあるべきです」ということ枠組みを示しを子どもたちに教えています。
「授業中も友達とおしゃべりしたい」と思っても「授業中は静かにすべきです」と指導します。
「恋人とずっと一緒にいたい」と思っても「学生の間は清い関係でいましょう」と指導します。
「遊びたい」よりも「勉強しなさい」と指導します。
「髪を金髪にしたい」と思っても「学生は黒髪であるべきです」と指導します。
「お金儲けしたい」と願うことより「世の中に貢献する人間を目指しましょう」と指導します。
先生の中での「こうあるべきだ」という規範があって、それに合わせようとさせるのが学校教育です。
個別の指導計画など、学校では「指導」という言葉が多用されることがそれを表しているでしょう。
”立派な人間”になろうとしてないか
立派な人間なるより幸せな人間になることの方が大事。
これは色んな場面で応用できます。
例えば自信を失い引きこもりの状態になったとします。
立派なのは学校へ通う行為です。もしくは自宅で猛勉強して遅れを取り戻すなどの行為。
ですがほぼ100%の確率でそれらは上手くいきません。
私自身も社会人になってすぐに大失敗してほぼ引きこもり状態になったのでよく分かります。
引きこもりからの回復での多くの成功例が示すのは一旦逃げることです。
自信を失った場所から離れて好きなことをして「今日一日楽しかった」と思える日々を増やすのです。
「逃げる」「好きなことをする」
これらは立派ではなく個人の喜びを追求しています。自分だけが幸せになる行為です。
障害ある子の教育の場合で見てみましょう。
障害とは詰まるところ「出来ない」ということです。
よって先生は「出来ないことを出来るようにする」ということに全力で取り組みます。
ここら辺は成績や個別の指導計画に「〇〇が出来ません」「〇〇のようになりましょう」という表現が多いので感じるところではないでしょうか。
学校では遊びたい気持ちよりも将来のために努力することが賞賛されます。
立派とされるのは障害と向き合い自立に向かって努力する行為です。
ただその立派な行為が将来へとつながっていない場合があります。
ですがそのことに目も向けずに毎年同じようなことが行われています。
例えば身体障害の子で3歩歩ける子がいるとします。
10年間の訓練で3歩から5歩歩けるようになりました。
出来ないことに取り組んで2歩増えたのだからよく頑張りました。立派です。褒められるでしょう。
ですが本人の満足度はどうでしょうか。
自信はつくでしょうか。
何かしらの問題は解決するのでしょうか。
それよりも今の自分でも出来るスポーツや芸術何でもいいので10年間取り組んだ方がどれだけ自信がついて人生に彩りが生まれることか。
楽しい時間とは自分がやりたいことをやっているときです。
自信がつくのは自分がやろうとして取り組んだことが成功したときです。
もう少し具体例を挙げますね。
小学校でいじめに遭いながらも自信を回復させた身体障害の子がいます。
きっかけはやってみたかった野球やスポーツを沢山やって、日々が楽しくなったから。スポーツが上手になって自信がついたから。
身体障害ありながらもパソコン作業で健常者、もしくはそれ以上の給料を得ている人がいます。
そこまで到達出来たのは自分の出来ることや得意なことを見つけ、実行したからです。
自閉症の男の子は偏食があります。また多動ですぐに学校を抜け出そうとします。
先生は偏食もさながらその多動性にも困っていました。
ただ高等部入学からは「本人の自由に」ということで偏食指導はなくなりました。
すると行動が落ち着き学校から抜け出すことはなくなりました。
卒業生を見ているとスポーツや芸術や恋愛や趣味などを持っている生徒は楽しそうです。
好きなことを通して夢を語り、絆を作ってます。
自信のある子は自分の出来るところを見ています。自信のない子は自分の出来ないところを見ています。
多くの子どもたちが自分の出来ることや得意なことで道を切り開いています。人生に彩りを持たせています。
他者からの評価より自分が思う幸せを追求した結果です。
バランスが大事、と最初にいったように立派な人間、世間に合わせることも必要です。
ただ障害ある子の環境は「出来ないことが出来るようになって自立しよう」という子どもたちが世間に合わせることを求め続けられています。
立派な人間であること、いわば立派な障害者であることを求められすぎているのです。
それが如述に現れているのが個別の指導計画ではないでしょうか。
子どもたちは「障害に立ち向かいなさい」「立派な人間になりなさい」と求められすぎているのです。
それにきちんと応えようとして自信を失くしていく子どもたちがいます。
きつい言い方になりすみません。
でも出来ないから障害なんです。頑張れば30点から35点には上がるかもしれません。
でも35点でも不合格には変わりないのです。
3歩歩ける子が5歩歩けたとしてもそこから幸せな人生にはつながりません。
それならば今ある時間をもっと幸せを感じられるような時間にあてた方が子どもにとってはどうなのでしょうか。
自信がつくのではないでしょうか。
人生に希望を見出せるのではないでしょうか。
「明日もきっと良い日だ」と思えるのではないでしょうか。
私がこんなことを書いているのも特別支援学校にいて「子どもたちは立派な人間になることを求められすぎている」と感じる場面に沢山出会ったからです。
そして立派な人間になるのをやめて自己の幸せを追求し始めたとき、子どもたちは輝き出します。
もし何かしらの問題が起きたのなら。
立派な人間ではなく幸せな人間になることを目指す
このことを当てはめて問題を考えてみてください。
立派な人間とは世の中の評価や世間体や一般常識、先生の意見などです。他人から褒められるような行為です。
その縛りを解いて個人が思う幸せを追求してみてください。
個人の幸せとは自分のやってみたいことや得意なこと、自分がどうありたいのかを追求することです。
他人からは褒められませんが自分の幸せにつながる行為です。
そのバランスが崩れたときに問題は起こり、そのバランスが取れたときに問題は解決します。
私はこのサイトを通してこのことをアホかのように語り続けます。
もし現在、または将来、障害あるお子さんのことで問題が起き行き詰ったら
立派な人間ではなく幸せな人間になることで問題は解決する
ということを考慮してみてください。
突破口が開けるかもしれません。