困ったときは
ダウン症の子どもへの支援方法のお話です。
支援方法といいますが、今からの話は学校や療育的な内容とは被らないでしょう。
人を十把一絡げにするのは、好きではないのですが、説明のために。
ダウン症の子らは概ね明るい性格であったり、自分に正直です。
学校的な教育的指導は、ダウン症の子らへの反発を買います。
これがどっちが悪いかというと、先生の方が問題あると思います。
ここで紹介する支援方法を実際にやる先生は少数でしょう。
私は元先生ですが、「俺だけかい」と思っていました。
私のノウハウを公開することで、多くのダウン症の子らが救われると信じています。
教育してはいけない
ダウン症の子らと接していると自然と私はそうなるのですが、「相手を変えよう」と思わないことをオススメします。
教育してはいけないんです。
教育とは正解があって、それにどれだけ沿えるかです。
彼らの心・・というか本来、人は自由でありたい本能があります。
上からの圧力、納得出来ない教えには反発するのが本来です。
そもそもが人は自由であり、個性を発揮したい生き物です。
教育とは不自然な生き方を求めていきます。
「教育者」であるほどダウン症の子らからは反発を買うでしょう。
ある高校生のダウン症のお子さんがいます。
彼は中学までは、地域の学校へ通っていました。
高校から特別支援学校に入学。私が担任を持ちました。
1学期最初は、彼は言うことを聞いてくれません。
「イヤ!」と座り込んだり、帰りのバスに乗り遅れることはしょっちゅうです。
ここで「教育」をするとバスの時間が来ることや、帰らなければいけないことを説明するでしょう。
それが当たり前だと思っていないでしょうか。
今、日本は「子どもには教育しなくてはいけない」が当たり前になっています。
間違ったことをしたら、正しい答えを教えねば、とほとんどの人がそう思うのです。
私は答えを言いません。
頭にあるのは「あなたはどうしたいの?」と問いかけをしています。
まずは彼と仲良くなることにしました。
彼は学力的には小学校1,2年生くらい。漢字が書けて、足し算、引き算が出来るくらいの子です。
授業の合間を縫って、かくれんぼしたり、鬼ごっこしました。
「死んだふり」やチャンバラごっこしたこともあります。
お説教的な事は一切言いません。
給食前に彼が座り込んだことがあります。多分、もっと遊びたかったからだと思います。
私は横に座って「〇〇君と一緒にご飯食べたいわー。先生お腹すいたわー」と言いました。
教育的な指導を一切していないことが分かっていただけますでしょうか。
彼とは対等な関係であり、私は私が出来ないことを彼に求めることはありません。
学校は報酬がないんです。
私は報酬がなければ働きません。
彼が先生の指示よりも、自分の気持ちに正直で生きたい気持ちは分かります。
彼はある日、「先生、怒ってるー?」と質問するようになってきました。
口調は柔らかく、本当に疑問に思っているようです。
1学期中はこの質問が多く、帰り際が多かったです。
私がノートを書いているときや、ふとした瞬間に彼は質問してくるのです。
「怒ってないよ」と私は答えました。
「なんで?」と彼はいつも聞いてきます。
「君は良い子だから先生怒ってないよ」と毎回お決まりの返事をしていました。
私のどの接し方が、彼を変える転機になったかは分かりません。
2学期後半から、彼は変わりました。
時折、ゴネはしますが、座り込むことが減り、なんだかんだで流れに従ってくれます。
彼は「この先生好きだ」と思ってくれたのでしょう。
自ら、私の話を聞くこと、決まりを守ることを決断してくれたのだと思います。
こんなことを言うのは、私くらいなものかもしれません。
それでも自信があります。
私は教育的指導だけが人を変えるとは思えません。
ダウン症の子らとの時間では、それがより顕著に出てきました。
彼らは教育に反発する悪い子でしょうか。
そうじゃないと思うのです。
あるダウン症の女の子がいました。
彼女は元気いっぱいです。自分の気持ちに正直過ぎてトラブルを起こしてしまいます。
先生の言うことは、ほとんど聞きません。
殴る、蹴るなどまでして反抗します。腕力的には先生の方が強いですが、それでもやるのです。
彼女は何も分かっていないのでしょうか。
教えなければ、将来もずっとこのままなのか。
私から見れば彼女は自分に正直でいたいだけです。
納得出来ることには、彼女は従うし、反抗するのは納得出来ないからです。
たまにですが、彼女は急に教室に入ってきて「ごめんー!!」と謝ってくることがあります。
土下座をしてきたこともあります。相手は友達が多いです
興奮状態になって、友達にやらかしてしまった。
時間が経って、自分が悪いことに気づいた。だから謝ろう。
彼女はそんな気持ちになったのだと思います。
彼女はもう規範を知っています。
もう教える必要はなく、気づいてもらうくらいです。
先生らは「彼女は意味が分からない」と言っていましたが、私は普通だと思いました。
やはり私は教育をしません。彼女と仲良くなることにしました。
何時間でも遊びに付き合いました。
彼女が座り込んだら、床にうつぶせになって寝たふりをしました。
「今から、先生ここで寝るから、ずっとここにいててや。先に行ったらアカンで」
と言い残して、床に寝るふりをします。
彼女は物音を立てないよう、立ち上がり、しばらく歩いて「作戦成功!」と笑顔で走って行きました。
「やられたー!」と私は立ち上がって、彼女を追いかけました。
そんなことを半年ほど続けたら、有り難いことに私の言うことは黙って聞いてくれるようになりました。
意固地になっても、「〇〇ちゃん、いこうかー」と言えば、手を握って立ち上がってくれます。
「これあげる!」と給食中に、余ったおかずを持ってきてくれたこともあります。
そうなると私も彼女をより好きになれます。
二人でいる時間が楽しくなり、卒業式は泣けてきました。
教育的指導だけが正解じゃないんです。
あなり馴染みない言葉ですが「啓発」という教え方があります。
啓発という子育て方法ですね。
啓発は正解がなく、相手の思うことや、気持ちを第一にします。
要は教育の正反対にあるものです。
啓発は、今の時代は例外扱いされています。
子育て本で言えば「テキトー母さん」や「いい加減な子育てでうまくいく」などの本になっています。
テキトーでも、いい加減でもありません。
子ども任せにするのは、啓発の姿勢です。
日本の公教育はほぼ100%で全国にいきわたっています。
おかげで「子どもには教育をする」が当たり前になりました。
啓発的姿勢は「いい加減だ」と評されるようになっているのが今の日本です。
教育者は啓発を受け入れません。
まぁ対極にあるので当然といえば当然ですが。
学校では一部の先生が、気持ちに寄り添う啓発の姿勢でいます。
スタンドプレーで成り立っており、学校全体としては啓発は行われません。
ダウン症の子らが、学校で悩むのはそんな理由だからです。
啓発とは「あなたの本音はなに?」を大切にします。
彼らの心に悪意はなく、ただ自分の気持ちに正直でいたいだけです。
自分にウソをつくことは不健全です。
心の不調は自分にウソをつくことから始まります。
心の病が増えていくのは「みんな同じが素晴らしい」の感覚が広まっているから。
日本人は教育されすぎていると言えるでしょう。
話が逸れてしまいました。
ダウン症のお子さんへの支援方法は啓発の姿勢です。
「教育しなければ」と思わないのが啓発の一歩目です。
その次は遊ぶ時間を増やしてみてください。
まずは今より子どもたちと仲良くなってください。
それは教育な方法ではありません。啓発の育て方です。